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石川数正の子孫、最後は?家康から出奔し豊臣へついた理由は?

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石川数正は、徳川家康を支えた有能な武将でした。

しかし、なぜか家康の元から出奔し豊臣方についてしまいます。

この記事では、石川数正の子孫や出奔理由、その後などを

調べたのでわかりやすくお伝えします。

https://twitter.com/nhk_ieyasu/status/1599613281450213383

 



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石川数正は家康の側近として幾多の危機を救った武将

石川数正は、徳川家康が、まだ今川家の人質であった頃から、

近侍として支えていました。

知略に優れた、いわゆる頭脳派だったようです。

実際に、家康の危機を何度も救っています。

代表的なことを3つ紹介します。

1つ目は、織田信長との和平交渉をしたことです。

桶狭間の戦いの後、家康は駿府に戻らず岡崎城に入ります。

この時は今川方でしたが、

徳川の使者としてその交渉窓口になりました。

その後も織田信長は、何かと圧力をかけてきましたが

戦国の世を生き抜けたのはこの時に織田側と和平を結んだことが

大きかったのではないかと思います。

だって、織田信長に逆らった者たちは

次々と潰されてしまいましたものね。

2つ目は、徳川が織田側についたことで、

今川氏真の怒りに触れ、

正室の瀬名姫と嫡男の信康、長女の亀姫が人質に取られてしまうのですが、

その時に、人質交換の交渉をしたのも石川和正でした。

捕虜としていた鵜殿長照と交換し、

無事に瀬名姫、信康、亀姫を連れ帰ります。

そして、信康の後見人にもなるのです。

3つ目は、清洲同盟成立にも力を尽くしたということです。

これによって徳川家康は、

今川方から正式に独立し、一国の主として

戦乱の世を生き抜くことになっていったのです。

この他にも

三河一向一揆や姉川の戦い、長篠の戦いなど

数々の合戦で活躍したと言われています。

石川数正は、徳川を支える有力な武将だったのですね。



石川数正の子孫や妻は?末裔は残っている?

石川数正には2人の妻と3~5人の息子がいたとされています。

最終的にお家の炉ゆちは没収されてしまうので

子孫が残っているのか、、、というのははっきりしていないようです。

石川数正の妻

石川数正の正室は内藤義清娘という記録が残っています。

それ以外は詳しくわかっていませんが、

この後に述べる息子を産んだのはこの正室のようです。

内藤義清とは、家康の祖父の清康に使えていた家臣のようです。

数正の母はと於大の方とは従姉妹だったそうなので、

家の中での縁組だったのでしょうね。

もう少し詳しいことがわかるといいのになあと資料を探しています。

もう一人、名前があがっているのが、

松平家広娘という女性です。

正室だったのか側室だったのか

それもよくわからないのです。

徳川から寝返ったということで

記録さえも抹消されてしまったのかと

思ったところです。

石川数正の子ども

石川数正には、3人の息子がいたことははっきりしています。

諸説では5人いたというのもあるようです。

長男は、石川康長です。

歴史書に

「康長が時、罪かうぶりて家たゆ。」

という記述があるそうです。

ここから、この方の時に石川の家が絶えてしまったということらしいです。

父、数正に従って徳川から豊臣方へつき、

父から家督と松本藩の8万石を受け継いでいました。

しかし、父も秀吉も亡き後、

関ヶ原の戦いの時には徳川方として参戦しています。

これによって、一旦は所領は安堵されました。

康政は娘を老中の多くも長安の長男大久保唐十郎に嫁がせます。

これで安泰、、と思いきや、

大久保家に汚職が発覚し、大久保藤十郎はその責で切腹することになってしまいます。

康長も身内ということで処分の憂き目にあい、

所領を没収、豊後国佐伯城下に流罪の身となり、

失意のまま、そこで生涯を終えます。

罪を被って、家を絶やす、です。

一説では、石川家を快く思わないものたちの陰謀というのも

あるようですが、全ては歴史の闇の中です。

怖いですね・・・

数正の次男は、石川康勝といいました。

石川康勝も父から領地として1万5千石を受け継いでいました。

しかし、兄の康長の流罪に関連してその領地を没収されてしまいます。

ますます、陰謀論が考えられますね。

その後は、大坂の陣に豊臣方として参戦し、夏の陣で討ち死にしたということです。

その子孫については、詳細はわからないそうです。

戦国とはいえ、この方も運命に翻弄された感ありますね。

石川数正の三男は、石川康次といいます。

この方も和正から五千石を受け継ぎますが、

2人の兄と同様に領地を没収されたそうです。

しかし、その後の記録には名前が見られないそうなんです。

戦で討ち死にしたのか、出家したのか、

はたまた全く違う人生を歩んだのか、、興味深いですね。

その他、Wikipediaによると、政礼、定政という名も見られます。

この方達についてははっきりとしたことがわかっていません。

ただし、浅間温泉の初代の湯殿は数正の孫と言われているそうです。

松本は、石川数正の領地でしたものね。

その説によると、

石川家は改易されましたが、小口と名を変え、子孫が今も日帰り入浴施設「枇杷(びわ)の湯」を営んでいる

とのことなんです。

本当かな~~~?



石川数正、なぜ家康の元から出奔?

石川数正は、家康が松平元康の名で、

今川義元のところに身を寄せていた時代から

家臣として付き従っていました。

先にも書いたように幾多の家康の危機を

持ち前の頭脳で解決し、乗り越えることができました。

しかし、1585年家族と家臣団を引き連れて

家康のところを出奔し豊臣秀吉の家来になってしまいます。

この理由については明確にされていませんが、

いくつかの推測があります。

出奔する前年の1984年に

徳川家康と豊臣秀吉は「小牧長久手の戦い」を起こします。

この時に、家康に和睦を提言したそうです。

結果としてこの戦いは双方に大きな被害を出しつつも

秀吉から講和の申し入れがあり終戦となります。

この前から、数正は徳川方の使者として

しばしば秀吉とは交渉の場についています。

この流れもあり、数正出奔には、次のような理由が考えられています。

 

①秀吉の人たらしに惹きつけられた。恩賞にも心を動かされた。

②秀吉との交渉に際して、秀吉と内通しているのではと本田忠勝らに疑われ、対秀吉が強い家臣団の中で孤立した

③家康と秀吉との衝突を下げるため

④後見人を務めていた徳川信康が切腹となり、家康との間にわだかまりが生まれた

⑤信康自害後、徳川家の家臣の中でも影響力が弱くなったため

⑥家康と示し合わせて、徳川家のために犠牲になったふりをした

 

とたくさんの説があります。

どの説から歴史を見るかで、歴史の見方が変わるのも面白いなあと

私は思いながらこれらの説を見ていました。

実はもう一つ、ちょっと胡散臭いかも・・・という説もあります。

それが、家康影武者説なんです。

本物の家康はすでに亡くなっていて、影武者が徳川家を継いだという説です。

ドラマにしたら面白そうですが、この件については私の意見は控えたいと思います。



石川数正、豊臣秀吉についた後はどうなった?

石川数正は、小牧長久手の戦いの後に、

康輝と改名しています。

この名前から、家康の栄華を願う気持ちが汲み取れるのですが、

この後、出奔して豊臣の家臣になるのですよ。

秀吉からは河内国8万石を拝領し、吉輝と名を改めます。

その後、北条氏が滅亡し、家康が江戸に移ると、

松本藩10万石を任されます。

ここで、数正(吉輝)は一国の大名として

堅固な松本城を気付き、城下町の整備をしたそうです。

死後は3人の息子たちにそれぞれの割合で石を譲ります。

豊臣下で、数正(吉輝)は徳川では得られない成果を得られるようになったのです。



石川数正の最期、死因やお墓の場所は?

石川数正(改名後は吉輝)は、1593年に死去します。

享年61歳だったそうです。

ただ、この年齢についても疑惑はありそうです。

1592年に秀吉の朝鮮出兵のため、

肥前国へ500騎を率いて肥前名護屋に出陣します。

この時に、陣中で亡くなったというのが定説のようですね。

この年の12月に京都の七条河原で祭礼が行われたと

歴史書「言経卿記」に記録があるそうです。

死後、数正が祀られたお墓ですが、

これも2か所あるようです。

1つが、領地の松本市の兎川(とがわ)寺です。

特に解説がされていないのですが、

松本は数正のお膝元なのであり得るなと思いました。

もう1つが、愛知県岡崎市の土呂殿本宗寺です。

こちらは、数正の出生地、ゆかりの地でもあります。

境内には数正のお墓があるそうです。

徳川家康の懐刀と言われ、

独立、発展に力を尽くしながらも豊臣方に寝返った石川数正。

とても興味深い方ですね。

ドラマでなかなか主役を演じることがないのですが、

この方の人生を見てみたいですね。

読んでくださり、ありがとう存じまする。



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