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石田三成の最後、妻・子孫は有名人?お墓はどこにある?

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石田三成というと、戦国武将の中でも

評価が分かれる人物です。

豊臣秀吉、徳川家康の間でどのようなことを思い、生きていたのか?

その悲劇的な最後や子孫や妻はどうなったのか?

さらには、インパクトのある旗の意味もまとめてお伝えします。



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石田三成の最後は?関ヶ原の戦いで・・

石田三成の最後は、関ヶ原の戦いの敗戦後、

捕縛されて、処刑されたと言われています。

関ヶ原の戦いでは、

豊臣方の大名連合軍である

西軍が有利と言われる中始まったにも関わらず、

一大勢力である小早川秀秋の裏切りにより

敗戦してしまいます。

この裏切りは、徳川家康が裏で仕込んだものと言われていますね。

敗戦した三成は、

逃亡し、再起を図ろうとしたそうです。

領民であった百姓の与次郎大夫に匿われていたそうですが、

家康の命により三成を捜索した田中吉政が、

三成を匿うと村人全員を処刑するが、

生きて差し出せば村の年貢を永久に免除すると言ったことから、

与次郎大夫や村の者に被害が及ばないよう

三成を差し出すように説得したのだそうです。

そして、

捕まった三成は家康の元に連れて行かれます。

そして、西軍として家康と対立した

小西行長、安国寺 恵瓊とともに

大阪や京都の街を引きまわされた挙句、

京の六条河原で斬首刑にされます。

私は、一国の主人、大名でもあり武将でもある三成に対し

あまりにも屈辱的な刑の執行だなと思いました。

家康はそうすることで、

他の豊臣方の力を削ぎ、

自身の権力を高めたのだろうとも思えました。

刑の執行は1600年10月1日だったそうです。

三成の首は晒され、

その後、遺体は交友のあった僧春屋宗園らに

引き取られたということでした。

それ以前に、

関ヶ原の戦いの敗戦で

三成の居城佐和山城は攻撃を受け

多くの一族が亡くなったとのことです。



石田三成の妻は誰、三成の死後はどうなった?

石田三成の妻は、皎月院(こうげついん)といい、

豊臣秀長の家臣であった宇多頼忠の娘と言われています。

一説では、姉が真田昌幸の正室山手殿だった

というものもあります。

真田は豊臣の家臣として

関ヶ原でも西軍と武将として大活躍しましたよね。

三成と血縁関係にあった

というのはもしかしたら事実なのかもしれませんね。

この方の記録はあまり残っていないそうですが、

三成は「うた」と呼んでいたそうです。

そして、18歳で秀吉に仕官した後、

1年後くらいのうちに結婚したと考えられています。

この皎月院は、三成の死後の行方も

様々な説があるとのこと。

その1は、東軍の攻撃を受けて、父らと共に、

佐和山城で亡くなった。

その2は、三成の刑の後自害した。

その3は、生き延びて自助を頼り、会津若松に下った。

有名人の妻の割には

記録がないというのも奇妙なものですね。



石田三成の子孫は有名人?まだ生きてる?

石田三成は、関ヶ原の戦いで敗戦したものの、

子孫は刑を許されたということです。

謀反とは違うという判断なのでしょうかね?

まず、三成の子どもたちは何人いたのかや、

その後どうなったのかを調べました。

三成には、3人の男子と3人の女子の子供がいたと言われています。

一部、2人の男子と5人の女子という説もあります。

わかっている人を紹介します。

石田三成の長男:石田重家

関ヶ原の戦いの後、徳川家康に命を助けられ、

出家して104歳まで寿命を全うしたそうです。

先ほども名を挙げた、

三成と親交のあった春屋宗園の弟子となり、

宗亨と名乗ったのだそうです。

重家の子である重直は、

松平忠直の庇護を受けて、その伴として越後へ入り

今でいう妙高市周辺の新田開発に携わったそうですよ。

三成が知略に優れていたので

その血を受け継いだのかしら、って思いました。

この家系は今でも続いているということです。

石田三成の次男:石田重成

関ヶ原の戦い後、津軽へ向かい、津軽氏に匿われたそうです。

そこで名前を杉山源吾とかえ、

弘前藩の家老職についたとのことです。

その子孫も、同じく津軽藩に仕えたんですって。

滋賀県から青森県まで、びっくりする逃走ルートですね。

石田三成の長女:名はない

三成の長女は石田家家臣の山田隼人正に嫁いだそうです。

この方の叔母が、阿茶の局で、

三成没後は、松平忠輝に使えたとのことです。



石田三成の次女:小石殿

蒲生家の家臣、岡重政の正室。

しかし、重政が蒲生家のお家騒動に関係したことから、

家康の三女である藩主の母振姫の逆鱗に触れ切腹処分となってしまいます。

その後、若狭国に移り住んだそうなのですが、

この方の子孫が脈々とその血を継いで、

現在の皇室まで続いているとのことです。

なんと、三成の曾孫に当たる女子が

将軍家光の側室、お振りの方となったそうなんです。

そのことから、血筋が受け継がれたということなので、

徳川的には処刑したはずの三成の血が

現代の日本の皇室に受け継がれているというのは

想像だにしないことだったのではないかと思います。

石田三成の三女:辰姫

高台院(北政所ねね)の養女となり、

弘前藩第2代藩主、津軽信牧の性質となったそうです。

石田三成の三男:佐吉

関ヶ原の戦いで、佐和山城が東軍に包囲された時、

攻撃を受けて三成の父の正嗣や兄の正澄が

自害するということになりました。

これが、小早川秀秋らの

裏切り、約束違反ということで、

家康により助命されたのだそうです。

その後出家して、清幽と名乗ったとのことでした。

石田三成の子孫については、

しっかりとした記録が残されておらず、

側室の子も他にいるのではないかと言われています。

上に紹介した子らは

皎月院の子だということです。



石田三成のお墓はどこにあるの?

石田三成のお墓は京都の大徳寺にあるそうです。

とはいえ、

亡くなった後は、

家康がお墓を作ることを許さなかったそうで、

土の中に埋葬されるだけにとどまったからなんですって。

なんか、家康ってひどい親父ってイメージが

膨らみます。

刑の執行後、元々親交があった

春屋宗園が遺体を引き取ったそうです。

今の、三成のお墓は、

1912年の改葬で発見されてから

改めて作られたのだそうです。

大徳寺の中の三玄院というところだそうですが、

普段は非公開のためお参りはできません。



石田三成の最後にまつわる驚くべき3つのエピソード!

石田三成は多くのエピソードを持っています。

そのうちの

どれが史実なのか、後付けなのかは

わからないくらいたくさんあります。

ここでは、

最後にまつわるエピソードを3つ紹介します。

石田三成最後にまつわるエピソード1:○○を断った!

三成は、小西行長、安国寺 恵瓊らと

都を引き廻されました。

あまりにも見窄らしくボロボロの格好となっており、

それを哀れに思い、3人に小袖が手渡されたのだそうです。

その時に、三成は、

「これは誰からのだ?」

と聞きました。

「江戸の上様から」という言葉を聞いた三成は、

「上様は大阪の秀頼公以外にいない」と

断りました。

その、嘘のない姿勢がかっこいいなって

私は思いました。

石田三成最後にまつわるエピソード2:裏切り者を糾弾!

捕縛されてしまった三成、

その様子を見にきた小早川秀秋に対して、

「もともと二心を持っているのは知っていたが、太閤の恩を裏切るなど武将として恥ずかしくないのか」

というようなことを言い放ったのです。

秀明は、そのことを恥じたのでしょうか、

顔を赤くしてその場を立ち去ったということです。

補足ですが、

小早川秀秋は、徳川家康に説得され、

西軍から東軍へと寝返ったのですが、

それを決断したのは、

陣地に打ち込まれた家康の鉄砲だったということなんです。

そこまで、決められなかった人を

味方にできなかった三成も

残念と思うのですが、

そういうところからも家康が上手だったと感じました。



石田三成最後にまつわるエピソード3:最後まで命を惜しむ

三成が刑場に連れて行かれる際に、

引率の将兵に喉の渇きを訴えたそうです。

お湯を所望したとのことですが、

それを用意できなかった兵は、

代わりに持参していた渋柿(干し柿の説もある)を差し出したということ。

ところが、三成はそれを断ったということです。

理由は「痰の毒」だからということ、

柿は身体を冷やす食べ物だから、

身体に負担をかけることを

嫌ったからと考えられています。

水ではなくて湯を所望したのもその意味があったのでしょうね。

しかし、刑場に行く途中ですよ。

将兵も

「今から斬首される運命にあるものが

今更痰の養生をして何の意味があるか」と

嘲笑ったそうです。

でもそれに対して、

「大望を抱く者は、たとえ首をはねられる間際まで、命を惜しむもの」と

三成は返しています。

ここからは、

最後の時まで、自分の希望を捨てず、

潔く身を散らした魂の尊さを感じます。

三成の人格と意志の強さを実感する

3つのエピソードでした。

あなたはご存知でしたか?



石田三成と秀吉の関係は?

石田三成は、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)がまだ織田信長に仕えていた

天正2年(1574年)頃から、

小姓として秀吉に仕えたのだそうです。

そして、天下人となっていく秀吉の側近として、

その知性と決断力を活かし

地位をのし上がっていきます。

秀吉が関白に就任した際に、

従五位下・治部少輔に任命されます。

秀吉の死後も

秀頼に仕えますが、

次第に勢力を伸ばす家康と対立し、

関ヶ原の戦いが起きるきっかけを作ります。



石田三成と家康の関係は?

石田三成は、秀吉の側近として

徳川家康と出会っています。

お互いをどう思っていたのかはわかりませんが、

最後は対立して関ヶ原の戦いを起こし、

敗戦して、家康の命により斬首されます。

その二人ですが、

三成は自分の身が危うい時に

家康に命を助けて欲しいと頼ったこともあったんですって。

秀吉の死後、

武闘派の大名たちと対立し、

暗殺されそうになったからなんです。

こういう事件があったと聞くと、

人との関係作りはあまり上手くなかったのかなって

思えますね。



石田三成の旗の意味は?

石田三成の旗印には、3つの大をはじめ

漢字が描かれて

何かの形のように見えます。

私も、なかなかに変わった

インパクトの強い旗印だなと

思いました。

そこで、その意味を調べてみました。

この旗のことを

「大一大万大吉」というそうです。

元は、石田為久という、三浦一族の出身で、

1184年に木曾義仲を打ち取った武士が

用いていた旗印なんだそうです。

この文字の読み方は、

「だいいち だいまん だいきち」と

そのまんまでした。笑

そしてその意味が、

「一人は万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」

というものだそうです。

大名としての指針を表した言葉のように

私には思えました。

この旗から、石田三成という人を推測すると、

民のことをよく考え、

周りのことにも気を配る、

志の高いリーダーだったのではないかと思います。

関ヶ原の戦いで徳川方に敗れたことで

石田三成の名はあまり良いものとして

伝わっていませんが、

もし、勝利していたら

もっと違う評価だったのではないかとも思いました。

読んでくださり、ありがとう存じまする。



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