築山殿、築山御前と言われる女性は、徳川家康の正室でした。
しかし、家康が今川(義元・氏真)方から織田(信長)方へ寝返ったことから、
人生の歯車が狂い始めます。
最後は、夫である家康の命で殺害されてしまいます。
徳川家康の人生で最大の悲劇と言われる、長男信康の自害も合わせ、
築山殿の生涯、家康との関係について書いていきます。
築山殿(瀬名姫)は家康の正室
築山殿、ドラマや小説では瀬名姫と称されることが多いですが、
実は本名は定かではないそうです。
父は、今川義元の家臣、関口親永(氏純)で、
母は、義元の妹(叔母説もあり)で、駿府で誕生しました。
1557年に今川義元の人質となっていた松平元宣(のちの徳川家康)と
やはり駿府で結婚します。
家康とは同い年とも若干の姉さん女房とも言われていますね。
1559年には長男竹千代(信康)、1560年に長女亀姫を出産します。
この頃までは、
築山殿にとっては穏やかで幸せな日々であったと予想されます。
しかし、この後
桶狭間の戦い(1560年)において
今川義元が討ち取られてしまい、その人生が激変していきます
築山御前は家康が今川離反で酷い目にあった
築山御前(築山殿)は、
桶狭間の戦いに際し出兵した家康が岡崎城に入ったため
夫の帰りを駿府で待つことになりました。
が、1562年、家康が織田側と同盟を結んだ(今川方からすると寝返った)ことから、
今川氏真の怒りを買います。
まず、父、母がその責をとり自害させられます。
家康の家臣、石川数正の策により、
今川家の家臣の、鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿、竹千代、亀姫との
人質交換が成立します。
それによって、築山殿は家康が住む岡崎城へ入ることができました。
しかし、それは城外であったそうです。
総持寺の築山近くに住んだことから
築山殿と言われるようになったそうですね。
もしかしたら離縁させられたかも、、、って説もあるそうです。
家康も場内に入れたかったのかもしれませんが、
敵方の女性でもあり、織田信長に遠慮してそういう処置になったと考えられますね。
築山殿と家康の仲はよかったの?
実は、家康には多くの側室がいました。
記録によると、20人ほど数えられるのだそうです。
この時代、大名が跡取りを残すために
側室をとることは一般的ではありましたが、
妻からすればあまり嬉しくないことですよね。
その中の一人に長勝院(お万の方)という側室がいたのですが、
この方が次男に当たる男子を産んだのですが、
築山御前が、それを家康の子として認めず、
長勝院を場内から追い出すということもあったそうです。
自分は場内に入れないしのに、、、という
思いもあったのでしょうかね?
築山御前は、信康、亀姫を駿府城で産んでいますが、
岡崎に来てからは子を設けていません。
この事実から、もしかしたら家康から遠ざけられたのかもしれないと
想像してしまいますね。
家康とは近くても同じ城では過ごせなくなった築山殿、
2人の心は離れていったと考えられますね。
それは2人だけの問題ではなくて、
織田と今川両家の争いや恨みなどが背景にあったように
私には思えます。
織田につくことで戦国を生き延びる道を選んだ家康にとって、
築山殿はその織田に滅ぼされた今川の一族、
自分の敵になった夫への思いが変わっていっても仕方がないですし、
家康としてもそういう女性を妻として愛することが難しかったのかもしれません。
築山殿が家康に出した次のような手紙があります。
我身こそ実の妻にて、御家督三郎ためにも母なれば、あながちに御賞翫あるべき事なリ。そのうへ吾父刑部どのは、御身故に失はれまいらせたり。其娘なれば、かたがた人にこえて、御憐みあらんとかねては思ひ侍るに、思の外引かへてかくすさめられまいらせず。郭公の一声に明安き夏の短夜だに、秋の八千夜とあかしわび、片敷袖のうたた寐に夢見るほどもまどろまねば、床は涙のうみとなり、唐船もよせぬべし。いまこそつらくあたらせ給ふとも、一念悪鬼となり、やがて思ひしらせまいらすべし。
「私が実の妻であり嫡男の母なのだから、もっと心をかけて欲しい。
私の父はあなたのために命を落としたのに、
こんな寂しい思いをさせるなんて、、、。」
という思いを伝えた手紙です。
これを読んだ家康がどういう反応をしたか、、というと
”いとどわづらはしく、おぞましさにおもひたまひしなるべし”
これは、
「とんでもなく病んでる、おぞましいにもほどがある」
というような意味です。
う~~む、どう考えても
愛し合っている夫婦のやり取りには思えませんね。
戦国の世とはいえ、これは辛いですよね・・・涙
築山殿の最後が酷い、家康の殺害命令!?
築山殿の最期、調べると酷いとしか言いようがないのです。
なんと、殺害された、というのです。
一大名の妻がなぜ殺されなければならないのか?
それも、織田信長が関わっています。
そして、もう一人のキーパーソンが徳姫です。
徳姫とは、信康の正室であり、織田信長の娘でもあります。
その徳姫と築山殿の折り合いが悪く、
徳姫から信長に12ヶ条からなる訴えの手紙が送られてしまいます。
次の項目で、この点については書いていますので
詳しくはそちらをお読みくださいね。
娘から届いた訴状を読んだ信長は怒り狂います。
そして、家康に
築山殿と信康の自害(処刑)を命じるのです。
信長に逆らえない家康はここでも苦渋の決断に迫られるのです。
説によると、信長から殺害の手が伸びたというのもありますし、
徳川家の将来を案じた家臣たちの手によるもの、というものもあります。
いずれにせよ、家康はそれを防ぐことをしませんでした。
浜松城に嘆願?に向かう途中で
築山御前は無惨にも殺害されてしまうのです。
これも、
・輿の中にいるところを槍で突かれたというもの
・逃げようとしたところを斬られたというもの
・自害を強要されたというもの
など諸説あるそうです。
しかし、共通しているのが最も酷いと思うことなのですが、
首をとられ、織田信長の元へおくられ、
遺体はそのまま埋められたのだそうです。
罪人ということから、
お墓を作る、弔いもなかったそうです。
女性なのにそんな処遇に合うなんてこの時代であっても
酷すぎる処分です。
築山殿は、謀反人とみなされてしまったということなんですね。
亡くなったのは1579年9月19日です。
99年後の100回忌にようやく「百回忌大法要」が開かれ、
その時にお骨が取り出されてお墓に埋葬することができたのだそうです。
なんてことでしょうね。この扱い・・・・
同じ女性として、許せない、悔しい気持ちも湧いてきます。
築山殿、信康自害の原因と言われているけどほんと?
築山殿は岡崎に入ってからも家康とは場内で暮らさず、
信康、亀姫と場外の築山で暮らしました。
そんな折、信康に婚儀の話が舞い込みます。
その相手は、織田信長の娘、徳姫です。
徳姫と信康が結婚したのは、2人が9歳の時だそうです。
それにより、2人は岡崎城内で暮らすことになります。
信康が元服した後は、
家康が浜松城に居を移したため、
築山殿は岡崎城内で暮らすことになります。
信康と徳姫の間には
天正四年(1576)に登久姫、翌天正五年(1577)に、熊姫の二人の姫が
生まれています。
しかし、男子がおらず、
後継ができないと困ると築山御前は焦ったと言われています。
そこで、武田家臣・浅原昌時の娘などを側室にしたそうです。
この時点で、徳姫にとってはうざいお姑さんでしょうね。
築山殿にとっては、敵の総大将の娘でもあり、
憎い気持ちがあったのかもしれません。
信康との間にも徐々に亀裂が入っていったと言われています。
夫との揉め事や嫁と姑の不和はどの時代にもありそうですが、
これは相手が悪すぎました。
何と言ってもバックについているのが織田信長です。
徳姫は、夫と姑について信長に「12か条の訴状」なるものを送ったそうです。
これもどうなんでしょうね?
自分の父親、しかも超権力者に悪口を書いて送るって、
よっぽど腹に据えかねたのか、
そもそもがわがままなお嬢様だったのか、
はてさて信長の狙いだったのか。。。はわかりません。
その中に書かれていたのが、
・築山殿は信康に嘘を言い、夫婦の仲を裂こうとしている
・武田勝頼と内通し謀反を企てていた
・築山殿が医師と密会した
・信康は家臣などにひどい扱いをしている
・築山殿は男子を産まない嫁を認めず側室を勝手に決めた
などだそうです。
信長の怒りは、築山殿と信康に向けられ、
家康がとりなそうとしても無駄であったそうです。
一説によると、家康は信康を逃がそうとして、
城を転々と変えさせたとも言われています。
しかし、信康は1、579年9月15日、二俣城において、
服部正成の介錯により切腹したそうです。(享年21)
実は、築山殿の殺害は、これより前であったことから、
信康自害により築山殿が狂乱して騒ぎを起こすのを防ぎたかった
ということも言われています。
いずれにせよ、
徳川家康にとっての最大の悲劇といえるでしょう。
築山殿は悪女という人もいるそうですが、
その生涯を見ると乱世に人生を狂わされたかわいそうな女性であったと
私には思えてなりません。
お読みくださり、ありがとう存じまする。
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