PR

お愛の方(西郷局)の最後、子ども、近眼だったって本当?

記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

お愛の方・於愛の方は、徳川家康の側室として

2代目将軍秀忠を産んだ方です。

数多い側室の中でも、家康には愛されていたとのことですが、

若くして亡くなってしまいます。

その死因はなんだったのか?

子どもたちはどうなったのか?の謎を調べて

まとめました




スポンサーリンク

お愛の方(西郷局)とは?

お愛の方は、お相と書かれることもあるそうです。

永禄5年:1562年に父戸塚忠春(今が訳の家臣だったらしい)と

西郷正勝の娘である母との間に生まれました。

幼い頃に、父が戦死したために

母と共に祖父である西郷正勝に引き取られました。

西郷正勝も、元々は今川の家臣だったそうですが、

桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことをきっかけに、

松平家の家臣となったようです。

そして、お愛は、従兄弟にあたる西郷正勝の孫西郷義勝と結婚し、

男女一人ずつの子どもに恵まれました。

しかし、この時代戦乱続きでしたね。

夫の義勝も武田家との戦いで命を落とし、

お愛は若くして未亡人になってしまいます。

子供を連れて、母のところに身を寄せていたお愛を

徳川家康が見初めて、側室にしたという説が伝わっています。

お愛はとても美しく性格も良い女性だったとのこと、

若くして辛い時代を過ごしていますが、

家康の側室となってからは

正室に近い立場であったということも言われています。

私は、お愛は戦国の女性としては

幸せも地位も手にした幸せな女性であったのではないかなと思います。

ただし、このあとふれますが、

若くして亡くなってしまうんですよね。

その謎が気になるところです。

では、

お愛の方が西郷の局と称されるのはなぜかを

次に説明しますね。



お愛の方が西郷の局と言われるのはなぜ?

お愛の方は西郷局(さいごうのつぼね)と呼ばれていますが、

なぜそのように呼ばれているのでしょうか?

夫と死に別れたお愛の方は、

母のところに身を寄せていたそうです。

家康に見初められて側室になることが決まったため、

叔父である、西郷清員の養女となったのだそうです。

そこから、西郷の局と名を改めたということなので、

実家の名を名乗ったようなものですね。

局というのは側室の呼び名なのですが

一説によると「西郷殿」という呼び名も残っているのですって。

殿は、築山殿 のように正室につけられる呼び名ということから、

一時期は正室の扱いもされていたようですね。

私は、西郷と聞くと、

西郷隆盛を思い浮かべて、鹿児島の出なのかしら・・・

なんて思っていましたが大きな思い違いでした笑



お愛の方の最後はどうなった?

お愛の方は、天正6年(1578年)に家康のもとに仕えることになります。

そして、浜松城から駿府城へと

家康と共に暮らしていました。

この駿府城へ移ってからの暮らしに

ストレスもあったということ。

この時期は、家康も織田・豊臣と上司を変え、

東海地方での権力も伸ばしていた頃です。

心労が重なったのかもしれませんね、、、。

なんと天正17年(1589年)にお亡くなりになるのです。

享年は28歳と言われています。

17歳で側室になり11年間添い続けたことになりますが、

この年齢は若すぎますよね。

死因は、実ははっきりしていないんですって。

中には、毒殺説もあるそうです(おーこわ)。

家康の嫡男信康と正室の築山殿が命を落としたのが天正7年(1579年)です。

この年に、お愛の方は、

次期将軍となる秀忠を産みます。

さらに、秀忠は、次男の秀康を飛び越え

嫡男の地位を与えられるのです。

つまり後継者の母となったお愛の方を

面白く思わない人がいたというのはありうることですよね。

心労か、毒殺か、定かではありませんが

そのくらい、激動期の家康の側で命を削った女性であった、

ということは間違いないのではないかと

私は思いました。

お亡くなりになった後は、

駿河国の龍泉寺というお寺に葬られたということです。

江戸幕府を打ち立てた家康は、

この地で17回忌法要を営んだそうです。

息子の秀忠も母を偲び

大法要を行なったことから、

この龍泉寺は、お愛の方の法号をとって

「宝台院」と呼ばれるようになりました。

一側室であったお愛の方ですが

徳川幕府の黎明期に

力を尽くした女性であったことが感じられますね。



於愛の方(西郷局)は将軍秀忠の母!

お愛の方は、家康との間に

天正7年(1579年)に秀忠を産みました。

幼名は長丸で、

家康にも非常に可愛がられたそうです。

その後、竹千代という名も継いでいます。

秀忠の秀は、豊臣秀吉から一字もらったということです。

家康にとっては3男にあたりますが、

事実上の後継者となりました。

徳川幕府2大将軍として

家康から受け継いだ政権を息子の家光に受け渡し、

徳川家の基盤を作った人でもありますね。



お愛の方の子どもは?前夫との子供はどうなった?

お愛の方には

前夫との子供と家康との子供

合わせて4人の子がいました。

このうち、

前夫との子供は調べても記録が見つかりませんでした。

分かり次第追記します。

男子が一人、女子が一人ということで、

前夫が戦死した時には

まだ幼すぎて家督を継げなかったと言われています。

その後、祖父のもとに引き取られたことを考えると、

西郷の家にいたのではないかとも考えられます。

家康との子供は二人で、

二人とも男子でした。

一人が、後継者となった二代将軍徳川秀忠です。

もう一人は、忠吉です。

忠吉は、天正8年(1580年)に生まれました。

幼名は於次(おつぐ)、福松丸と

名を変えます。

一時期、秀吉の元に人質として

送られていたこともあったそうです。

その後、

尾張国清洲城の城主となります。

しかし、

27歳の若さで没したとのことでした。

兄の秀忠と比べてしまうと、

不遇な生涯を過ごしたのではないかなって

悲しくなってしまいますね。

ちなみに、

お愛の方は孫に当たる徳川家光により

1628年に正一位の位を授かっています。

これは、秀忠の思いもこもっているのかなって

私は感じました。



お愛の方(西郷院)は近眼だったって本当?

お愛の方が亡くなった時に、

盲目の女性らがこぞって悲しみ手を合わせたと

言われています。

それは、

お愛の方が、

目が不自由な女性たちに手厚い保護を与えていたからと言われているのです。

お愛の方ご自身も

近眼だったという噂がありました。

なんでも読書家だったらしく

それで目が悪くなってしまったのではということでした。

私も近眼です・・・

小さい頃に本を読むのが好きで

かなり目を酷使したことが原因かなと思っています。

この時代に

女性が本を多読するというのは

すごいことだなって思うので、

やはり、お愛の方はただものではない

すごい女性だったのだなあとしみじみと思いました。



コメント

タイトルとURLをコピーしました