於大の方(おだいのかた)は、あの徳川家康の生母です。
しかし、戦国の世の習いで波乱万丈の人生を辿りました。
子とは一緒に暮らせず、家の都合で離縁され再婚することになったり、
夫や子を殺されたり、今の時代では想像できない一生でした。
その於大の方の波乱の人生についてまとめました。
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於大の方の親と結婚までの道のり
於大の方が生まれたのは、1528(享禄元年)年です。
尾張国、知多郡の豪族、水野忠政とその妻於富(華陽院)を両親として
生まれたそうです。
俗説としては実の父は青山政信で、忠政が幼女に取ったというものもあるようです。
この父ですが、なんと自分の妻を離縁してたの男に嫁がせてしまいます。
そんな、ありえん!って思いますが、
繰り返すようですが時は戦国の世です。
三河松平家と手を結ぶために、松平清康からの求めに応じ嫁がせたとか・・・。
断ればお家が断絶してしまう。。。
於富の方もとても美しい方だったということです。
まあこれも、俗説らしいので事実は不明です。
そして、於大の方も、この松平家に嫁ぐことになるんです。
母が嫁いだとされる清康の跡を継いだ松平広忠に。。。
この時、1541年とあるので、於大は13歳ですね。
於大の方は家康の母となるが息子とはほとんど暮らせなかった
松平広忠の元に嫁いだ於大です。
松平家が当時住んでいたのは岡崎城、
そこで、於大は嫁いだ翌年の1542年に長男の竹千代を出産します。
この子がのちの徳川家康となります。
翌年、於大は、三河刻妙心寺に阿弥陀如来を奉納しました。
これは竹千代の長生きを願ってのことと言われています。
広忠と於大は政略結婚ではありましたが、
仲睦まじく暮らしていたようです。
しかし、その幸せも長くは続かないのです。
於大の方は離縁された!?織田との関係のため松平家から出ることに・・・
於大の方の父である水野忠政が1544年に亡くなってしまいます。
あとを継いだのは兄の信元でした。
信元は、それまで繋がりを持っていた今川氏を裏切り、
織田側についてしまいます。
愛知の小国ですから、権力争いでどちらを取るかというところだったのでしょうか。
そこで、今川方である松平広忠は、於大の方を離縁してしまうのです。
水野も水野ですが、松平家もお家の事情があったのですね。
まあ、これも調べたら諸説ありました。
婚姻を取り持った広忠の叔父である信孝が追放されたからとか、
信元の妻が広忠と家督を争った松平信忠だったからとか・・。
どの説にしろ、於大の方は離縁されてしまうのです。
政略結婚の末の政略離縁です。
於大の方は家康を残して実家に戻ることになるのです。
このあと、家康は、今川家の人質になるのですが、
そこでは華陽院となった於富に育てられたということです。
実母とは離れ離れになりましたが、
祖母と生活できたことは家康にとってはせめてもの救いだったのかな
なんて思います。
キャプ画を撮ろうとしたら
ちょうどオーバーラップシーンに差し掛かり
於大の方(松嶋菜々子)が心霊写真みたいになった pic.twitter.com/tKSCchEoxY— ゆうぞう (@estoes_unrobo) January 19, 2023
於大の方の再婚相手とその理由
水野家(実家)に戻った於大の方ですが、
今度は再婚の話が持ち上がります。
1547年、兄信元の意向で知多郡の久松俊勝に裁可することになります。
どうやら水野家は、松平家と互角になれるよう久松家と手を結びたかったようです。
政略結婚、政略離縁、政略再嫁、、、
戦国の女性は本当に道具のように扱われるのですね。
私はこのことを知って怒りが湧いてきましたよ。
それでも於大の方は、この再婚相手である久松俊勝との間に
三男三女をもうけたとのことです。
政略ではあっても、幸せだったのかもしれません。
この間、家康は、散々な目に遭っていました。
今川家の人質となり、
織田に翻弄されたりと、、。
そんな家康とは密かに連絡を取っていたとのこと。
於大の方にとって家康は大事な息子だったということですね。
於大の方と築山御殿は仲がよかった?
於大の方と築山御殿は、嫁・姑の関係です。
でも、於大の方は離縁、再婚の家康とは一緒に暮らしていませんでした。
築山御殿も、桶狭間の戦いで今川家が織田家と対立。
さらに家康が、今川方から織田方に寝返ったことで
(戦国の世だから仕方なかったんでしょうね。)
その間で板挟みになってしまいます。
そんなわけで、家康とは別の城で暮らすことになってしまうので
於大の方との接点は見つからなかったのです。
ドラマでは、一緒に語る場面があるようですが、
実際はそういう話をすることも難しかったんじゃないかしら。
二人の仲がどうだったのかは良くわかりませんでした。
調べて何かわかったら追記しますね。
於大の方、家康に引き取られ晩年は出家
1560年の桶狭間の戦いでは
織田軍が今川義元を討ち取りました。
今川に身を寄せていた家康は今川より離れ独立します。
この時に、織田勢から家康を守ったのが於大の兄の水野伸元だったそうです。
水野家は織田家の家臣として、戦いにも参加していたのです。
その縁から、水野信元は家康と織田信長の仲介役をしたそうです。
於大はあいかわらず家康と離れて暮らしていましたが、
俊勝との間の子、
久松康元、康俊が松平姓を与えられ家康に仕えることになります。
生まれたばかりの定勝も松平姓を与えられます。
於大は子達を通じて、家康とも会えるようになりました。
しかし、於大にさらなる不幸が見舞います。
兄の信元が、信長から謀反の疑いをかけられるのです。
この時に、信元を処刑する役目を命じられたのが家康でした。
信長の命令に背くことができない家康は、
家臣の石川数正を使って信元を岡崎城に呼び出し
殺害して(自害させて?)しまいます。
これにも驚きますね。
自分を助けてくれた恩人を、母の兄を討ってしまうとは。
それだけ、当時の家康はギリギリだったということなのでしょうね。
ただ、この時に於大の夫の俊勝も手を貸したということで
俊勝は家康に激怒して失踪、西郡城に引きこもってしまったそうです。
やりきれない思いを抱えたまま、於大は家康に引き取られます。
せっかく親子が暮らせるようになったものの、
ちっとも喜べない顛末だったのですね。
家康は、於大の子、
つまり父の違う弟たちを家臣にしましたが、
一人は人質として武田に差し出し、
もう一人は秀吉の養子にしよともしました。
ただ、この時は於大が強く反対し、
養子は免れたそうなんです。
幾つになっても心穏やかではない於大でした。
その後、俊勝が亡くなると於大は髪を下ろし
伝通院と名乗ります。
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於大の方の死因とお墓は傳通院に
於大の方は、伝通院として俊勝の菩提を弔いながら
晩年を過ごします。
しかし、まだまだ平穏な日々は訪れません。
1602年、豊臣家と徳川家が険悪になった時、
その間を取り持ったのだそうです。
高台院や後陽成天皇と会って家康は豊臣家に敵対する意志はないと伝えました。
豊国神社にも詣でて、その思いを伝えたと言います。
結局、両家は戦うことになりますが、
最後まで家康のために於大は力を尽くしたということなのです。
母の愛は本当に偉大ですね。
同年の8月、家康が滞在していた京都伏見の山城城でその波乱に満ちた生涯を閉じます。
享年は75歳でした。
この時代にしては長く生きた方だったのですね。
そのお墓は、江戸小石川の傳通院にあるそうです。
彼女の人生は、大変なことばかりでしたが、
母として生きた於大は
戦国の世の素晴らしい女性として
後々名前を残すことになったのですね。
読んでくださり、ありがとう存じまする。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」の相関図はこちらからご覧ください
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