源頼朝は、鎌倉殿である源頼朝の異母弟に当たります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、穏やかで理知的な人物に描かれていますが、
歴史上は、無能、気性が荒いという記述もあるそうです。
その源範頼( 通称 蒲殿かばどの)の最後は諸説があって何が正しいかは不明だそうです。
その範頼の最後と子孫について調べました。
源範頼(みなもとののりより)の最後はどうなった?
源範頼は、wikiによると1150年に生まれ1193年に没したと記録されています。
昔の方なので、正確でないのは仕方ないとしても、
源頼朝の異母弟としてずっとそばに仕えていた
源氏の一人です。
こんな曖昧な記録でいいの?
って思ってしまいましたよ。
没した日付も8月17日説と9月14日説もありました。
もっというと、
いや、死んでない、遠くへ逃れたという記述もあります。
なんと、ゆかりのお寺も何箇所かに分かれているんですよ。
こんなに最後がはっきりしていない歴史人も珍しいなあと思うほどです。
そのはっきりしない最後を説明する前に、
生まれと活躍ぶりをちょっと紹介します。
生まれたのは1150年らしいです。
父親は源義朝、これは頼朝、義経と同じですね。
母親が池田宿の遊女だったそうです。
その後、養父である藤原範季に引き取られ、
名前の1文字をいただいたということです。
6男だったそうで、義経にとっては兄に当たりますね。
「鎌倉殿の13人」では血気盛んな義経を可愛がり見守る立場でしたね。
実際にはどうだったのか?
はっきりはしませんが、
源義仲追討や平氏追討の戦いでは、
義経の活躍、しかも独断的な行動での活躍に押されて、
出る幕がなかったことを愚痴っていたという記録もあったとのこと。
但し、義経の働きが頼朝にとっては悩ましかったところから、
範頼の戦いぶりは逆に波風を立てることがなかったようです。
何がいいのかわかりませんが、
目立たない方が生き延びられる確率が高いというのも、
この後範頼の最後においては皮肉なものだなと思います。
なぜなら、範頼も最後は頼朝への謀反を疑われて処刑されるからなんです。
その謀反については後で説明します。
ここでは、疑いをかけられた範頼が最後どうなったのかを書いていきます。
先述したように、範頼の最後にはいくつかの説があります。
そのうち3つを紹介します。
範頼の最後その1:伊豆に流され自害する
頼朝への謀反が疑われて、伊豆国の修善寺へ幽閉される
そこで、梶原景時らに攻められ自害する。
中には自害ではなくて謀殺されたという記録もあるそうです。
*但しこの説に関する史料は範頼失脚から100年以上経って書かれたものであることからホントかなあと思われる。
範頼の最後その2:埼玉県の吉見地方に逃れる
修禅寺に幽閉された範頼は、武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の
吉見観音に隠れ住んだという説もあります。
吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、
それは吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられているそうです。
範頼の最後その3:伊予国に逃れた
伊豆修善寺で梶原景時らに攻められた範頼は、ひそかに難をのがれて四国に渡り、
源氏とゆかりの深い伊予の豪族、河野氏を頼って、この地に落ちのびたと言われています。
亡くなったのはこの地という言い伝えもあり、墓所もあるんですよ。
鎌倉神社という神社がそれらしいです。
他にも越前に逃れたとか諸説あり、ひょっとして人気者だったの?
と、死亡説を塗り替える説があることに驚きました。
源範頼の子孫はどうなった?
源範頼は、謀反を疑われました。
本来ならば、その子孫も処罰されます。
現に、源義経は妻子も愛妾静御前が産み落とした子も処刑されています。
(怖い怖い・・・・・・)
だけど、範頼の子孫は、その後御家人として生き延びるのです。
名前を、範圓・源昭と言います。
範頼の妻は、頼朝の乳母であった比企尼の孫だったそうです。
そのため助命嘆願された頼朝は、
そのいうことを聞いたようですね。
義経と違うのは、実際には範頼は挙兵していないということがあります。
そのため、殺されずに済んだのでしょう。
2人は、比企氏ゆかりの吉見の地で御家人となり、
吉見氏として生き延びていくことになります。
『尊卑分脈』『吉見系図』などに残されているとのことなので、
この系図をたどるとどの時代まで生き延びたのかがわかりそうですね。
源範頼、頼朝への謀反はあったのか?
源範頼は、本当に源頼朝に対して謀反を行なったのでしょうか?
史実によると、疑わしき言動はあるようですが、
それもはっきりしていないそうです。
まず疑いを呼ぶ原因となったのが「曽我騒動」です。
これは、曽我兄弟の仇打ちの際に、源頼朝の命が狙われたというところから発するのです。
鎌倉へな速報として、頼朝が討たれたらしいという知らせが行きました。
それを聞き狼狽している政子に
範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と告げたそう。
これが、頼朝の怒りを買うわけです。
それに加えて、
釈明せよと言われて書いた手紙の署名が
「源範頼」だったことから、
源氏名を名乗ることはなんてことだ!!(正確には不明)と
さらに頼朝を激怒させてしまったそうです。
いやいや、頼朝、怒りっぽいですよね。
でも、これを政子の諌言という話もあるので、
頼朝や北条氏にとって、
そもそも範頼が邪魔になっていた可能性もなきにしはあらず・・・・
そう考えると怖いですよね。
何を言っても謀反になっちゃうんだもの。
さらには、家人の当麻太郎が、頼朝の寝室の下に潜り込んだことから、
疑いがさらに深まる、、という事態に。
当麻太郎は、頼朝から良い返事が来ずに、嘆き悲しんでいる主人のために
その真意を知りたかったから、、と言ったそうです。
だけど、頼朝はそんなの信じませんでした。
範頼に問いただしても
〈範頼は覚悟の旨を述べた。)(by吾妻鏡)
ということで、頼朝は疑いを確信し、範頼を伊豆国に流したのだそうです。
まあ、調べてもはっきりしませんね。
当時の詳細な記録はありませんし、
結局権力を握った人たちの手で、歴史は書き換えられるといいますからね。
「鎌倉殿の13人」では、蒲殿こと源範頼はどんな最後を迎えるのか、
気になって気になって仕方がありません。
結局は、頼朝の命令で梶原景時が善次に殺させる、という酷い結末になってしまいました。
謀反というよりも、頼朝の被害妄想から、、といった感じがしましたね。
範頼は、最後まで好人物として描かれていただけに、生き延びる説をとってほしかったなあと
私は残念に思いました。
実際のお墓は、修善寺の近くにあるということなので、
修善寺に行った時にはお参りしようかなあと思います。
歴史上の人物ですが、ちょっと共感したくなる源範頼の最後を中心にお伝えしました。
読んでくださり、ありがとう存じまする。
コメント