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和田義盛の子孫と妻、和田義盛の乱後も生き延びたのは誰?

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和田義盛は、鎌倉十三人の合議制のメンバーでもあり、初代侍別当にもなった人物です。

北条義時と対立し、和田義盛の乱により殺され、一族も滅亡を辿ります。

しかし、中には生き延びた子もいたとか、、、

和田義盛の乱、子孫や妻についてまとめました。

 

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和田義盛の乱・和田合戦とは?死因は?

和田義盛は、鎌倉幕府擁立から体制確保まで

鎌倉方の要人として活躍した坂東武者です。

初代侍別当を務め、御家人からの信もありましたが、

北条義時と対立をして、反乱を起こし最終的には一族を滅ぼされてしまいます。

その戦いを和田合戦、和田義盛の乱とよんでいます。

そのきっかけになったのは、1213年2月に信濃国の泉親衡が

源頼家の遺児、千寿丸を擁して、北条家を倒そうと起こした反乱でした。

阿静房安念という僧を通じて仲間を集めていたのだそうですが、

千葉成胤に捕まって計画が露呈し、

乱が立つ前に、首謀者や一味一網打尽となる、という結果になりました。

その中に、なんと、和田義盛の子息である、義直、義重と甥の胤長もいたのだそうです。

北条氏がその力を強めていくことに、反感を持った御家人は

多かったと言われています。

そのため、このようなことになってしまったんでしょうね。

和田義盛は驚いて、将軍源実朝と北条義時に謁見し、

子らの命乞いを願ったそうです。

和田一族のそれまでの功績を認められ、

義直、義重は許されましたが、胤長については陸奥国に流されてしまいます。

この頃から、北条義時の和田義盛に対する挑発が始まったと言われています。

そこから、和田義盛は、徐々に北条義時への不信を強め

とうとう打倒北条氏を決意するのです。

武蔵國の横山党や同族である三浦義村も味方の約束を取り付け

1213年5月2日に、義盛は北条氏妥当の旗を上げます。

しかし~~

なんということか、三浦義村の裏切りにあいます。

義村はその企みを義時に伝えてしまうのです。

味方を3手(北条義時邸、大倉御所、大江広元邸)に分けて攻撃を仕掛けた義盛軍ですが、

北条氏の勢いに徐々に後退せざるを得ず、由比ヶ浜まで追いやられてしまいます。

横山党が加わり勢いを盛り返しますが、

最後は北条軍の前に力つきます。

息子、義直が討たれたことに戦意を喪失した義盛は、

程なく江戸義範に討たれ、最後を遂げるのでした。

この和田合戦により、北条氏に楯突く有力御家人は一掃され、

北条家の権力は揺るがないものとなっていったのだそうです。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では憎めない人柄で

和田義盛の人気は高いですね~。

それもあり、この和田合戦という和田氏の最期はやるせない気分にさせられます。

ドラマで和田義盛を演じたのは横田栄司さんです。存在感のある方でしたね。

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和田義盛と三浦義村の関係は?

和田義盛は、三浦義明の孫です。

つまり、三浦義村とは従兄弟の関係、同族なんですね。

和田氏の和田は、房総半島にある地名にちなんでのものと言われています。

房総を基盤とした三浦一族の分家?と考えると

納得がいきますね。

ともに、鎌倉殿に仕えた二人でしたが、

最期は、義村の裏切りによって義盛の人生が決まってしまいました。

時代背景上、仕方ないのかなと思いますが、

同族でも裏切るという三浦義村はどういう人物なのか、

その胡散臭さゆえに気になりますね。

https://twitter.com/siho_pipo/status/1579249682924318720



 

和田義盛の子孫は?生き延びた子は誰?

和田義盛は、たくさんの子を持つ父でもありました。

残念なことに、そのうちの多くが和田合戦により、命を失うこととなりました。

しかし、生き延びた子もいたと伝わっています。

ここからは、和田義盛の子どもたちについて書いていきます。

和田義盛の長男:和田常盛

和田常盛は、1172年生まれ。弓の名手でもあり、勇猛果敢な武者として名を馳せました。

和田の乱では、危うく難を逃れ、命からがら逃げ落ちることができました。

しかし、逃亡先の甲斐国で、自害したと言われています。

せっかく生き延びたのに、自害したのは、長男としての責を重んじたからでしょうか?

ただし、常盛の長男の朝盛はその後も生き延びて

佐久間氏の養子として生涯を終えたそうです。

朝盛の孫の家盛は佐久間姓を名乗り、その後織田信長の家臣である

佐久間氏へとつながっていったのだそうです。

和田義盛の次男:和田義氏

和田義氏は、義盛の次男だと言われています。

「和田系図」によると和田義盛の乱の後に、手越宿というところで

討ち取られたと記されているそうです。

「吾妻鑑」には名が挙がっていないことから、それ以前に亡くなっていた可能性も否定できないということです。

謎の存在ですね。

和田義盛の三男:朝比奈義秀

鎌倉にある「朝比奈切り通し」を一夜にして切り開いたという伝説の人物です。

一説には巴御前との子と言われていますが、

1176年生まれという年代から、それは後世の創作だということです。

本当だったら面白いのになあとちょっとがっかりしました。

この義秀、なぜ姓が朝比奈なのかというと、

所領があったのが安房国朝夷郡だったからと言われています。

この義秀も、常盛同様、力の強い猛々しい猛者であったとのこと、

和田の乱においてもその武力で大活躍をします。

しかし、味方が次々と倒されるのを見て、一族の残り約500名ほどを率いて

安房国まで落ち延びたそうなのです。

しかし、その後のことははっきりとはわかっていないのです。

「和田系図」によると、高麗へ逃れたと書かれているとか・・・。

義経がモンゴルに逃げて、チンギス・ハンになったという噂もありますが、

和田一族も後世の方には滅ぼすには惜しい一族だったのかもしれませんね。



 

和田義盛の四男:和田義直

義直は、この後記述する弟の義重とともに

北条義時打倒を目指した泉親衡の乱に加わったとされています。

そのことが、北条氏との対立を深め、結果として和田合戦と言われる戦を

引き起こすことになってしまうのです。

しかし、義直はこの合戦で、父の義盛に先立って命を落とします。

義盛は、義直を非常に可愛がっていたとのことで、

義直の死により戦意を喪失してしまったそうです。

大泣きをした、、、という説もあるほどなので、

義盛という人物の情愛の深さをうかがい知ることができますね。

和田義盛の五男:和田義重

義重は、兄義直とともに、北条義時の政治に意を唱え、

打倒を目指して泉親衡の乱に加わります。

そして、和田合戦で討ち死にしてしまいます。

和田義盛の六男:和田義信

義信も、和田合戦で28歳の若さで命を落とします。

しかし、上野国では、その子孫と名乗る上野和田氏が戦国時代まで存在していました。

この子孫は、信州の長野氏などと縁戚関係を結び、

保科氏や会津の松平氏に仕えていったといわれています。

それが事実ならば、和田義盛の武将としての魂は

後世にも伝わっていったと言えるのですね。

和田義盛の七男:和田秀盛

秀盛も、和田義盛の乱で15歳で討ち死にをしたそうです。

動乱の時期に青春を散らしたって悲しいです。

和田義盛の八男(末子):杉浦義国

八郎という名も残っているそうですが、はっきりとした記録は残っていないそうです。

義国は和田の乱を生き延びて、近江国にたどり着き、そこで杉浦を名乗ったそうです。

一説では、上野和田氏となったのは、実はこの義国の子孫とも言われています。

和田義盛の娘

和田義盛には、側室などとの間に3人の娘もいたと言われています。

神奈川県にある西光寺の開祖は、吉森の娘が、父を弔うために建てたとも伝わっています。



 

和田義盛の妻は何人いたの?

和田義盛には、正室と側室がいたと伝わっています。

正室は、伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の禰宜であった度会康高の娘だそうです。

この方は、和田の乱後も生きていたことがわかっています。

義盛の所領は没収されるのですが、

それが伊勢神宮のものであったこともあり、恩赦を受けたのだそうです。

側室は、横山時重の娘、武蔵国の有力者横山党の出自だということです。

子が誰なのかはわかっていません。

もう一人の側室は、巴御前と言われています。

これは、「吾妻鑑」には記述がなく、「源平盛衰記」においてのみ、

源頼朝から巴御前を召しいただいたという記述があるそうです。

史実を照らし合わせると、これは創作じゃないか、、と

考えられるのですが、

「鎌倉殿の13人」では、とてもいいカップルとして描かれていますね。

ちなみに神奈川県の小田原市には、

巴御前が、木曾義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建されたとされる

善栄寺があるそうです。

見に行ってみたいものです。

和田義盛、なかなかに興味深い武将です。

読んでくださり、ありがとう存じまする。





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