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文覚とは?頼朝との関係、出家理由は不倫?死因は?

鎌倉殿の13人
歌川国芳画「六様性国芳自慢先負文覚上人」より
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文覚上人は、平安後期~鎌倉時代前半にかけて活躍した僧です。

自身も流された伊豆の国で源頼朝と出会い、平家打倒の挙兵を促したと言われています。

鎌倉殿の13人では「怪僧」と言われている通り、行動力はあるが学識のない乱暴者と「愚管抄」では著されているそうです。

ここでは、文覚と源頼朝との関係、出家前の事件やその後の活躍などを調べてまとめています。

 



 

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文覚発心:元武士人妻に横恋慕して出家

文覚、は元武士。従兄弟袈裟御前に横恋慕して・・

文覚とググると、「文覚発心」という言葉が出てきます。

文覚は、もともとは武士の家に生まれた人でした。

それがあることをきっかけに出家をするのです。

そのことを言う言葉なんですね。

文覚は、保延5年(1139年)、摂津源氏傘下の武士団である

渡辺党遠藤氏の武士、遠藤茂遠(えんどうもちとお)の子として生まれます。

俗名は、遠藤盛遠(えんどうもりとお)と言います。

北面武士として、鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが、

19歳で出家をします。

この原因が、同僚の渡辺渡の妻、袈裟御前に横恋慕をした挙句、

誤って殺してしまったことにあると「源平盛衰記」には記されています。

これが文覚発心といわれる事件です。

創作とも言われていますが、

袈裟御前は絶世の美女といわれる実在の人物なので、

何かしら関係はあるかもしれませんね。

もう少し補足すると、

この袈裟御前は文覚が少年時代に世話になっていた叔母の衣川の娘なのだそうです。

だから、従兄弟という関係でもある2人。

袈裟御前自身は、渡に嫁いで幸せな生活を営んでいたといいます。

しかし、文覚(当時盛遠)の執拗な求愛に悩み、

その様子に、受け入れなければ母や家族にも危害が及ぶと考えました。

そこで、

「夫ある身では受け入れられないから、夫を殺してくれたら受け入れる」

という旨を文覚に伝えるのです。

文覚は、勇んで渡の家に忍んで行き、

袈裟御前に言われた通り、

濡髪の髷を頼りに、布団に横たわっていた人物の首を切り落とし、

家に持ち帰ります。

そこで、はじめて、自分が殺めたのが袈裟御前と知り、

痛烈な後悔の末に出家するのです。

月岡芳年画「芳年武者牙類」より



 

この出家の際に、滝に打たれる荒行などを繰り返したとも言われ、

和歌山県の那智の滝には、文覚修行の跡地もあった(災害で消失)そうです。

文覚と源頼朝との関係は?平家打倒の挙兵をすすめた?

文覚と頼朝は流された先の伊豆で出会ったとされています。

文覚は当時は僧として、京都の神護寺の再興に奔走していました。

それを、後白河法皇に勧進を強要したということから、

怒りを買い、伊豆の国に流されたのだそうです。

そして、頼朝がいた場所から近い奈古谷に居を持ったようです。

「平家物語」には、荒ぶる海をも鎮める修験者としても描かれているということで、

尋常ではない、いわゆる異能の人として頼朝と出会うのでしょうね。

文覚は、頼朝の父義朝の髑髏(ドクロ)を示して、

平家打倒を促したといいます。

但し、この時、頼朝はまだなんの力も持たない流民でした。

そこで、

「今は朝敵となっている身だから、謀反を起こすことはできない」

と答えたそうです。

すると、文覚はこともあろうか、

後白河法皇に頼朝に平家を討たせてはどうかと申し入れるんだそうです。

本当に、何をやらかすかわからない怪異な方ですね。

平家の横暴に頭を痛めていた後白河法皇は、

平家打倒の院宣を文覚に託し、

ここから頼朝を中心とした源氏の決起が始まるとされています。



 

文覚は鎌倉殿と幕府を支えた重要人物

文覚は、頼朝に訴えかけ、平家を討伐し鎌倉幕府の設立に

力を貸しました。

頼朝の後ろ盾もあり、念願だった神護寺の再興にも成功し、

神護寺の祖と言われるようになるのです。

この神護寺は、

のちに弟子の上覚や明恵に受け継がれていきます。

加えて、

東寺、高野山大塔、東大寺、さらには江の島弁財天など、

国内各地の寺院の回復に務めたのだそうです。

また、源氏再興後、追いやられる平家の残党狩りを見て

まだ幼かった平維盛の嫡男である六代の助命を嘆願し、

神護寺に保護したそうです。

頼朝としては、平家の子孫を生きながらえさせることには不満もあったかもしれません。

それでも、許可をしたということは

それだけ文覚の影響力が強かった、頼りにしていたということではないかしらね。

歌川国芳画「六様性国芳自慢先負文覚上人」より



 

文覚の失脚の原因、死因は?

頼朝の死後、文覚は失脚する?

強い権力を手にした文覚ですが、それも頼朝存命中まで。

頼朝が亡くなった後は、

天皇や将軍の跡目争いにも巻き込まれ失脚していきます。

その大きなきっかけとなったのが三左衛門事件(さんさえもんじけん)です。

これは、源頼朝急逝直後の正治元年(1199年)2月、

一条能保・高能父子の遺臣が権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件です。

頼朝という後ろ盾を亡くしたことで、

力が弱まることを恐れたこれらの家の人たちが、

形成を挽回するために、

当時権勢を振るっていた通親を襲撃したとみられているそうです。

文覚は、ここに連座したと見做され、佐渡へ流罪となります。

この時に、文覚が保護した六代も処刑されたということから、

実質的に文覚の力は幕府に及ばないものになったと考えられますね。

その後、通親の死後、許されて京に戻った文覚ですが、

相変わらず勢い強いんですよね。

さすが怪僧と言われるだけあります。

文覚の最期、死因は?お墓は?

しかし80歳を直前に、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられます。

色々と批判したということもあったようで、煙たがられたのでしょうね。

対馬に流されることになるのです。

その道中、文覚は病にかかり鎮西で、

数人の弟子に看取られながらこの世を去ります。

建仁3年(1203年)のことでした。

遺言では、

「神護寺の山の京都の町がよく見下ろせるところに遺骨を置け」と。

弟子の上覚らは、その言葉の通りに遺骨を持ち帰り、

高雄山の頂に祀ったそうです。

墓所は、神護寺にあるということです。

実は、この後日談があるんですよ。

文覚を咎めた後鳥羽上皇ですが、

その後、北条義時を相手に戦をしかけます。

これが承久の乱なのです。

それに敗北し、後鳥羽上皇が流されたのが対馬!

文覚の怨みがそうさせたのでは、、という人もいるんですって。

本当に、死んでからもなお怪力を発揮した

異能の僧文覚です。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、

歌舞伎役者の市川猿之助山が演じていらっしゃいますが、

怪人同士、ハマりすぎて怖いですね。

読んでくださり、ありがとう存じまする。

*鎌倉殿の13人についてはこちらもどうぞ。

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*市川猿之助山についてはこちらもお読みくださいね。

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