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畠山重忠の子孫は?死因と北条との関係、歌舞伎でもイケメン!

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畠山重忠(はたけやましげただ)、歌舞伎では秩父重忠などの呼ばれ方もあり、

イケメンで知性も品性もある武将として描かれています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもイケメンぶりが人気?

しかしその最期、死因は謀殺ではないかといわれるほど悲壮であったそうです。

イケメン武士畠山重忠の子孫や北条氏との関係もまとめました。


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畠山重忠(はたけやましげただ)は鎌倉殿の御家人?はじめは平家よりだった!

畠山重忠は、鎌倉時代、源頼朝に仕えた武士の一人です。

生地は埼玉県の現在の深谷市あたりで、

父は畠山重能、源義朝追討の後、平家に従い

忠実な御家人として仕えたそうです。

その後、源頼朝が挙兵した際は、

17歳の重忠が平家方として頼朝討伐に加わります。

石橋山の戦いで、頼朝が敗走した際に、

頼朝方の三浦一族と対戦したそうです。

そして、三浦氏の本拠地であった衣笠城に攻め入って、

当主の三浦義明を討ち取ります。

若干17歳で、坂東武者の城を落とすというところからも

畠山重忠は知略にも武力にも長けた人ではなかったかなって思えますね。

ただし、この三浦義明は、重忠にとっては母方の祖父でもあったらしい。

これって、武士の世だから仕方ないのかもしれないけど

私からすると、なんて非道な人だろうと思ってしまいます。

「鎌倉殿の13人」では、小栗旬演じる北条義時と山本耕史演じる三浦義村とは

幼馴染として描かれてもいます。

その義村と合戦し祖父を滅ぼしたその後も、

同じ頼朝に仕える同志でいられることも

この時代にはよくあることなのかなあと思ったものです。

畠山重忠の簡単プロフィール

畠山重忠:別名 庄司次郎

生没年月日 1164年生誕~1205年7月10日没 享年42歳

父:畠山重能  母:三浦義明の娘

妻:足立遠元の娘、北条時政の娘

子:重秀、重保、重政、円耀、重慶、娘2人(それぞれ島津忠久、足利義純に嫁ぐ)

畠山重忠の死因、最後は謀殺?

畠山重忠、42歳で亡くなっています。

17歳から頼朝に仕え、頼朝亡き後も鎌倉を支えた武士でした。

が、、、

権力争いの中で最後は、北条氏の罠にはまり、命を落とします。

頼朝没後は、誰が実権を握るか?で

御家人たちは血で血を洗う争いに巻き込まれていきます。

梶原景時、比企能員、和田義盛を抑えて最終的に実権を握ったのが

北条時政です。

畠山重忠は、北条時政にとっては娘婿ではありましたが、

実朝を擁立するため、さらにその力を強めるため

時政は容赦せずに多くの御家人を弾劾したと言われています。

畠山重忠の場合は、『吾妻鏡』によると、

元久元年(1204)11月、重忠の嫡子・畠山重保と、

北条時政の後妻・牧の方の女婿である平賀朝雅の酒席での口論が発端です。

この朝雅が、その遺恨を晴らそうとしたのか、

母である牧の方に、畠山重保・重忠が謀反を企んでいると告げ口をするんです。

あの時代、告げ口から失脚する人、多かったですね。

源義経も、梶原景時も、源範頼も、

権力者を危うくさせる告げ口から攻めこまれる口実を作ってしまっています。

畠山重忠も、謀反の意思はなかったとされていますが、

告げ口の相手が悪かったですよね・・・。

それを本気に受け取った北条時政が

北条義時、時房に畠山重忠、重保親子を打つように命じたのです。

一応、この歴史書でも、義時らは止めたと言いますが、

時政が聞かずに、討伐を推し進めたとされています。

人徳も高い重忠を討つことに消極的だった御家人もいたようですが、

三浦氏は、仇打ちとばかり積極的に討伐に参加したそうです。

この討伐の流れですが、

まずは息子の重保に矛先が向けられます。

鎌倉で謀反の兆候があると由比ヶ浜におびき寄せられた重保は、

その謀反人とは自分であると知ります。

そして、その場で合戦となり討ち取られてしまうのです。

翌日、やはり鎌倉に部隊を率いて入ろうとした重忠を

義時らが率いる鎌倉方の大群が取り囲み戦いとなります。

重忠は、まさか自分が謀反の疑いをかけられているとはつゆ知らず、

そこで息子の死も知らされ、

ここはもう引けない、戦うしかないということで応戦したといわれています。

最後は、愛甲季隆の放った矢に討たれたそうですが、

「愚管抄」によると自害したという記録もあります。

この戦いが二俣川の戦いといい、畠山重忠の乱として知られているものです。

謀反の疑いをかけられた重忠の部隊は134騎で、

謀反を起こすとは到底考えられなかったということから、

北条時政は御家人たちの恨みを避けるために、

義時・政子らによって鎌倉から追放されることとなります。

そして、実朝を将軍に据えた、北条義時・政子らが

幕府の実権を握っていきます。

そう見ると、

源頼朝没後、北条氏に権力が移っていく過程で、

畠山重忠の死は、大きな影響を及ぼしたといえますね。

畠山重忠の子孫はどうなった?

畠山重忠の子である、畠山重保、重政は、

畠山重忠の乱において謀殺されてしまいます。

乱を生き延び、出家していた末子の重慶も

謀反の疑いで謀殺されてしまいます。

しかし、妻は北条時政の娘ということと

実際に重忠は謀反を起こしていなかったということから、

重忠の所領は、妻に託されたのだそうです。

その後、再婚した足利義純が

畠山重忠の所領を納めることとなります。

重忠直結の子孫は絶えてしまいましたが、

間接的に、畠山の土地を継ぎ、守っていった子孫はいるということですね。

それにしても、

後世から見てもこの乱は後味の悪さを引き起こします。

それは、畠山重忠の描かれ方が

清廉潔白というとても好人物像だからでしょう。

対照的なのが、梶原景時です。

景時も、やはり謀反の疑いにより謀殺されるのですが、

景時が悪人として後々描かれています。

この描き分けも、

なんか北条氏にとって都合がいいようにされているのかな?

なんて思える節もあります。

畠山重忠、歌舞伎でもイケメン!

畠山重忠は、前の項で書いたように、

後世では立派な好人物として描かれています。

歌舞伎でもよく登場する人物ですが、

概ね、捌き役と言われる役に当たります。

この役は、公正で思慮分別に富む人物として描かれ(イケメン役者が演じることが多い)、

物語の終盤に颯爽と登場し問題を解決していきます。

有名なところで2つ作品を挙げます。

1つは、「壇浦兜軍記~阿古屋~」です。

ここでは、平家の郎等で無類の強者である景清を捕らえるため、

その愛妾である阿古屋の取り調べを行う役として登場します。

阿古屋を拷問にかけろ、という岩永左衛門の話に耳を貸さず、

3つの楽器を奏でさせます。

そうして、その奏でぶりから、嘘をついているかどうかを見極めるのです。

最終的に、嘘はないと判断し、阿古屋を釈放するのですが、

楽器で検分をする、という役柄からも

畠山重忠が武道だけでなく芸道にも秀でていたことをうかがわせる

設定となっています。

もう1つは、「伽羅先代萩」です。

こちらでも、捌き役として颯爽と登場します。

ただし、こちらでは名前を変えています。

というのも江戸時代に伊達藩で起きたお家騒動を描いたお芝居なのですが、

当時の都合により、

時代を鎌倉時代、家の名も足利になっています。

そのため、幕府管領としてお家騒動の仲裁を行うのは、

細川勝元となっています。

が、これは畠山重忠がモデルといわれてもいるので、

その気分で見ると、畠山重忠に見えなくもない、、、

という、ちょっと弱めの推薦です。

これ以外の歌舞伎演目にも

畠山重忠は登場していますので

(なんといっても、源平者が多いのです)、

探して観にいくのも楽しいと思いますよ。

歌舞伎でもおなじみ、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも人気の高い

畠山重忠についてお伝えしました。

読んでくださり、ありがとう存じまする。

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