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工藤祐経はなぜ曽我兄弟に殺された?子孫は?頼朝、伊東祐親との関係は?

鎌倉殿の13人
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工藤祐経(くどうすけつね)は鎌倉時代の武将で、

源頼朝の信望が厚かったものの、曽我兄弟の仇討ちで命を落としました。

歌舞伎演目「寿曽我対面」では、堂々とした工藤は座頭と言われる核の高い役者が演じる役でもあります。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では若き日の工藤祐経も描かれていますね。

ここでは、工藤祐経についてをわかりやすく紹介します。



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工藤祐経(くどうすけつね)とは誰?

工藤祐経は、平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した武士・御家人です。

生まれは、1147年、1154年の2つの説がありはっきりしませんが、

亡くなったのは1193年6月28日という記録があります。

なぜこの日がわかるのかというと、

後述する曽我兄弟に討たれたからです。

工藤祐経は元は藤原の血を引くしっかりとした家の者でした。

父親の工藤祐継は伊東に所領を持つ武士で、

祐経も歌舞音曲に秀でた教養のある人物であったと言われています。

しかし、父の早世により運命が大きく変わってしまいます。

初めは、烏帽子親、伊東祐親の後見を得て、

祐親の娘万劫御前を妻にし、京で平重盛に仕えるという立派な役目も負っていました。

その後所領も妻も奪われ、その原因となった祐親親子の殺害を企みます。

頼朝の平家討伐に加わったことから、

頼朝に重用されるようになり、

一﨟職という名誉ある身分を受けるまでになっていきます。

しかし、曽我兄弟により命を落とすことになります。

工藤祐経の死後、子の犬房丸は伊東祐時と名乗り、伊東氏を継承します。

その子孫は、やがて日向国へと向かい、

その地で戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となっていったということです。

この子孫は、のちに豊臣秀吉に使えることにもなるのだそうです。

工藤祐経は、長い時を経て、大名としての名と血を継承していくのですね。

さて、ここまでのプロフィールで、

*伊東祐親になんで所領と妻を奪われたの?

*なんで頼朝に重宝されたの?

*なんで曽我兄弟に殺されたの?

という疑問が湧いてきませんか?

次からはそれについて一つずつ書いていきます。



工藤祐経はなぜ伊東祐親(いとうすけちか)を恨んだ?

幼少期に、父である祐継が早く亡くなってしまった祐経、

父の遺言により叔父の伊東祐親の元に身を寄せます。

後見人となった祐親は、

娘の万劫御前を嫁がせ、祐経を上洛させ、平重盛の家臣へと推挙します。

祐経が在京中に、あろうことか、祐親は、祐経が継いだ伊東荘を押領してしまいます

それだけでなく、妻の万劫御前を離縁させ、土肥遠平に嫁がせてもしまうのです。

実は、祐親は祖父かつ養父の工藤祐隆が嫡孫の自分を差し置いて、

養子の祐継に伊東荘を相続させたことに不満を抱いていたのだそうです。

そのことに気がついた祐経は、京都で訴訟を起こしますが、失敗に終わります。

所領と妻を奪われ、祐経は伊東祐親を深く恨むようになるのでした。

当時、伊東祐親は、伊豆ではそこそこの力を持つ武士でした。

加えて、娘を有力者に嫁がせるなどの人的ネットワークも作っており、

財力や名声では、まだ20代だった工藤祐経の及ぶものではなかったようですね。

祐経の訴訟が失敗に終わるのも、

祐親の力が祐経よりも圧倒的に上回っていたからと考えられますね。

どうにも治らない、祐経は、祐親の殺害を企みます。

1176年、大見小藤太、八幡三郎に命じて

狩りから帰る伊東祐親と祐泰親子を襲撃させます。

これによって、祐泰は命を落とします。

この遺児が、後の曽我兄弟です。

一方、伊東祐親は命拾いをしたものの、

源氏との戦いで敗れ自害します。

祐経は頼朝についていたことから、

ある意味、仇をとったと言えるのかもしれませんね。

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工藤祐経は源頼朝の重臣だった

工藤祐経は、平重盛の家臣でしたが、

弟の宇佐美祐茂が源頼朝の挙兵に付き従ったことから

今日より鎌倉へ戻り、頼朝に仕えるようになったと言われています。

一説では、

伊東祐親親子を狙わせたのは頼朝だったというのもありますが、

それは定かではありません。

調べたところ、工藤祐経は大きな武功を立ててはいません。

それでも、京で培った教養や政治的手腕を

頼朝に重宝されたようですね。

確かに、頼朝も京の出身です。

無骨な坂東武者の中において、

祐経の都での経験や大役を務めてきた能力は

一目を引いたのかもしれませんね。

いずれにせよ、頼朝は祐経を厚遇し、一﨟という名誉職も与えたと言われています。

しかし、それに対するおごりもあったようで、

工藤祐経の態度をいまいましく思う武将も鎌倉にはいたそうですよ。



工藤祐経はなぜ曽我兄弟に討たれたのか

工藤祐経は、伊東祐泰の遺児である曽我兄弟によって命を落とします。

この物語は、曽我物語といい、若くして父の仇を討ち、果てた兄弟を哀れむ人により、

言い伝えられている仇討ち物語の一つでもあります。

曽我兄弟とは、

河津(伊東)祐泰の2人の息子、一万と箱王のことをさします。

2人は、当時3歳と1歳の子どもでした。

だから、実際には父のことを覚えていないと思います。

2人の母は、子をつれて曽我祐信と再婚したため、

曽我性を名乗ることになります。

兄弟の母は、息子たちが成人したら親の仇を討つことを

心配していたということです。

そこで、弟の箱王を箱根権現へと預け出家させるのですが、

先に元服していた兄の十郎祐成が弟を連れ出して、

北条時政に烏帽子親になってくれるように頼んだのだそうです。

そこで、曽我五郎時致という名を得たということも伝えられています。

兄弟は、父の仇である工藤祐経を16年かかって討ち果たすことに成功します。

これは、頼朝が主催した富士野の巻狩でのことでした。

酒宴の席だったようですが、

その場に2人は押し入り、そばにいた家来衆も死傷者が出る大惨事となったそうです。

この時、兄の十郎祐成は亡くなりますが、

頼朝の首をも狙った五郎時致はその場で取り押さえられます。

事情を鑑み赦免をという声もあったようですが、

結果的に斬首されることになってしまいます。

若くして親の仇を討ち、自らの命を散らした曽我兄弟の物語は

日本の3大仇討ちとして有名なんですよ。



工藤祐経と曽我兄弟の対面は歌舞伎の人気演目

曽我兄弟が親の仇である工藤祐経への仇討ちを誓ったお芝居があります。

それが、「寿曽我対面」です。

これは人気演目で、毎年2~3回はどこかの舞台にかかります。

ここでは先述の通り、工藤祐経は格の高い役者が演じ、

曽我兄弟は、兄は和事といい優しげな色男として演じられます。

弟は、荒事といい、隈どりが印象的な雄々しい役として演じられます。

富士野の巻狩の責任者となった工藤祐経を祝う場に、

曽我兄弟が目通りを求めてやってくるという内容なのですが、

そこに居並ぶ人たちが豪華で、華やかな一大絵巻のような舞台を楽しむことができます。

梶原景時や、八幡三郎といった面々も並びます。

大磯の虎と、化粧坂の少将という遊女も居並ぶのですが、

この大磯の虎は、曽我十郎の恋人だったとも言われています。

お芝居では、仇を討とうとはやる兄弟に対し、

狩を進める責任者の役目があるから、それが終わるまで待て、という工藤とのやりとりも描かれます。

ここで、祐経は、兄弟に狩場に入る手形を渡します。

つまり、仇を取りに来い、と暗に伝えているのです。

この曽我兄弟の敵討ち物語を知っていると、

こういう場面も本当にあったのかなって思える興味深い一幕なのです。

この機会に是非ご覧いただけるといいですね。

工藤祐経は、大河ドラマ鎌倉殿の13人でも重要人物として登場します。

どんな物語が描かれるのかとても楽しみです。

読んでくださり、ありがとう存じまする。



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