三浦義村、最後は病死のようですね。
妻や子孫など一族はは承久の乱などで滅びたとされていますが、
生き延びた子孫もいたようです。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でにわかに注目を浴びていますが、
今までその名を聞いたことがありませんでした。
最後(死因)はどうなったのか?
妻や子孫はどう生き延びたのか?
さらには北条義時毒殺説などについても調べてまとめました。
三浦義村と三浦一族とは?
三浦義村は平安後期から鎌倉時代初期にかけての武将です。
父は三浦義澄、祖父が三浦義明、
三浦半島周辺を所領とした三浦一族の当主です。
父の義澄と祖父義明は、
源頼朝挙兵の折、源氏方として参戦しました。
石橋山の戦いで劣勢になった頼朝を助けようとしたものの
悪天候のため叶わず、引き返したところ、
平家方の畠山義忠らの軍と衣笠城合戦となってしまいます。
この戦いで義明は討ち死に、
義澄らは安房国に渡り、
のちに逃れてきた源頼朝の臣下として平家軍討伐に加わります。
三浦義村が頭角を表すのは、
源範頼が総大将を務める平家追討軍に加わったところあたりからと言われています。
その後、鎌倉殿となった源頼朝に仕え右兵衛府という位に任じられます。
源頼朝が亡くなってからは、
幕府を支える中心的な役割を務め、
北条義時、北条泰時らとともに将軍を支える有力者として活躍します。
ドラマ「鎌倉殿の13人」では、様々な陰謀に加担する
得体の知れない男として描かれていました。
「明月記」を記した藤原定家は義村のことを、
「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書いています。
これはどう時代のものから見ても理解できない行動をする男
といった意味のようで、
知力も武力も備えたリーダーシップの持ち主ではあるものの
理解し難い人物であったようですね。
ドラマでは、山本耕史さんが頼りになるけど胡散臭い平六を
好演していらっしゃいます。
こんなにいい男だったのかな~なんて思いながら
三浦義村イメージを描いています。
三浦義村のプロフィール
名前:三浦義村(みうら よしむら)
通称:平六(へいろく)
生涯:1168年(仁安3年)~1239年(延応元年)12月31日
父:三浦義澄(みうら よしずみ)
母:伊東祐親の娘
三浦義村の最後と死因
三浦義村は、北条義時よりも長生きします。
それだけで、「え~!?」ってびっくりです。
鎌倉の大mだった御家人たちは
謀反や戦で命を落としています。
あの、梶原景時も畠山重忠も和田義盛も・・・涙
その中で、北条義時よりも長生きってだけで驚いてしまいました。
三浦義村の生年は、1168年頃と言われています。
没年月日は、1239年12月31日らしいです。
大晦日にお亡くなりになるとは、
なんとも稀有な宿命ではないかと思ってしまいます。
死因は、「吾妻鏡」によると、「頓死、大中風」だそうです。
これは、頓死とは急死のことを意味します。
大中風とは脳卒中(脳梗塞、脳出血、蜘蛛膜下出血)のことを指すそうです。
つまり、脳疾患により急にお亡くなりになったということのようです。
色々な企み事をしてきた義村ですが
謀反とか陰謀とかではなかったようですね。
享年71歳ということなので
当時としては長生きしたと言えますね。
ちなみに、源頼朝の享年は51歳で、北条義時の享年は61歳でした。
最後まで、鎌倉幕府の要人として活躍されたようですね。
三浦義村の妻は?
三浦義村には妻が二人いたと言われています。
ドラマでは、何かっていうと女の人を口説いている場面が目につきます。
だからもっと奥さんやお妾さんがいたのじゃないかしらって
思ったのですが、
二人というのは、あの時代にしては真面目な方だと思います。
一人は、土肥遠平の娘です。
平家滅亡後はその功により安芸国の地頭に任じられていた遠平、
その娘が吉村に嫁いだのですね。
もう一人は、一条忠頼の娘です。
一条というと、お公家さんの出でしょうかね?
これ以上の記録は見つかりませんでした。
子供は、14人もいるので
もしかしたらもっといらしたのかもしれません。
あちこちで女性を作っていたなんてことも
あったかもしれませんね。
では、その子供たちはどうなったのかを次に見ていきます。
三浦義村の子孫はどうなった?
三浦義村には、先述の通り、子が14人もいました。
その中で家督を継いだのは、次男の泰村でした。
娘の矢部禅尼は、北条泰時の正室になっています。
北条家と三浦家はもともと伊東祐親の娘を通じて
縁戚関係にありました。
矢部禅尼と泰時の婚姻によって両家はさらに結びつきを深めたと言います。
泰村も、北条泰時の娘を娶ったとも言われていて、
本来なら両家の絆は強まっていたと思えますが、
権力争いは怖いですね。
北条氏に代わって権力を得ようとした泰村は、
鎌倉で挙兵します。
その背景には、時頼が北条重時の帰参を評定にかけた際に
泰村が賛意を見せなかったことに対し、
危機感を強めた時頼らの策謀があったと言われています。
この挙兵は、宝治合戦といい、
幕府側の圧勝に終わったそうです。
敗北した泰村ら妻子、郎等などは義村の墓がある法華堂で自害し、
三浦の直系はここで途絶えたと言われています。
「吾妻鏡」には
ここで亡くなった三浦一族について以下のように記されているそうです。
若狭前司泰村と子の景村・駒石丸
能登前司光村と子の駒王丸
駿河式部三郎(駿河式部大夫家村の子)
駿河五郎左衛門尉資村
九郎重村
三浦又太郎式部大夫氏村と子の次郎・三郎
三浦三郎員村
その他駿河式部大夫家村が行方不明
その他駿河八郎左衛門尉胤村が囚人として捕らえられ出家
しかし、三浦一族のうち生き残った子孫もいたといいます。
それが、行方不明となった家村の子孫です。
血筋を残すよう言い含められた家村が
三河地方に落ち延び、その子孫政重が
土肥性として、2代目将軍の徳川秀忠に仕えたのだそうです。
その子である正次の時に三浦性を復姓したと伝えられています。
この後裔の明次が美作国勝山藩(岡山県真庭市)の初代藩主となり
明治維新まで三浦の名跡を伝えたということです。
さすが、三浦一族・・・
壮絶な戦をも生き延びるって凄い生命力。
この他にも噂としてたの地域で三浦の名を残している方もいらっしゃるそうです。
三浦義村は北条義時を毒殺した?
三浦義村と北条義時、
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では盟友として描かれています。
実際に、三浦義村は、
義時が亡き後もその子の泰時を支えて幕府のために尽力しています。
が、ちょっと気になるのが義時の最後です。
史実では北条義時は
1224年6月に突然発病し、翌朝死去したということになっています。
この発病は、それまで患っていたものなのかという説もあります。
発病してから、亡くなるまで念仏を唱え続けていた、
ということも伝えられています。
本当に病気なのか?
その中で毒殺説が上がりますが、それは義村ではなさそうです。
首謀者と目されているのが義時の妻伊賀の方。
ドラマでは、のえという名で登場している女性です。
ここに義村がどう絡むかというと、
義時の死後、伊賀氏の変という謀反がおきます。
これは、伊賀の方が、兄伊賀光宗と謀って、北条泰時ではなく
自分の子の正村を執権に、娘婿の一条実政を将軍にしようと企んだというものです。
ここに義村も加担していたそうですが、
北条政子の説得で手を引いたのだとか・・・。
そうなると、間接的に義時を破滅に追いやろうとした
とは考えられますね。
歴史上のことなので真相はわかりません。
色々な想像を膨らませられる
三浦義村という奇怪な人物は、
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を通じて一躍有名になりました。
今後、義村をめぐるドラマが作られるかもしれません。
そこに私は期待しちゃうかも。
読んでくださり、ありがとう存じまする。
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