市川團十郎の家系図と格式について、歴代團十郎の死因、襲名にまつわる謎

市川團十郎という名は歌舞伎界では最も格が高いと重要視されています。

江戸歌舞伎にさかのぼる歴代の團十郎や家系図、

市川團十郎家の格式を表す象徴などについて書いていきます。




市川團十郎の家系図は江戸時代から続いている?

12代目市川團十郎さんが、2013年に逝去されてから、

13代目市川團十郎白猿が誕生するはずだった2020年。

これはまさしく一大イベントでした。

2021年現在は期限の決まっていない延期となっています。

團十郎襲名にかかる予算は、約10億円を下らないだろうと言われています。

歌舞伎市川流の家元であり、歌舞伎界でも最も権威のある名前とされている市川團十郎。

その家系図はこちらです。

7代目からですみません・・・。

(この前も只今作成中なので、出来上がったら追記します。)

成田屋 Sheet1

こちらから見ても分かる通り、9代目までで、一旦市川家の地は途切れています。

11代目市川團十郎は、超イケメンで人気が高かった役者さんでしたが、

実の父親は7代目松本幸四郎なのです。

このかたは、勧進帳の弁慶を1600回も演じたという大記録をお持ちの伝説の役者さんです。

のちに10代目を追贈された市川三升は9代目の長女市川翠扇のお婿さんでした。

お二人には子がいなかった(か継げる子がいなかったか?)ので、

当時9代目市川高麗蔵と名乗っていた幸四郎の息子を

養子にしたのです。

そのため、実質的な血筋は、ここで途切れてしまっています。

ただし、歌舞伎にとっては血筋と同じくらい(かそれ以上か?)名跡が重要なので、

その子孫が名を受け継ぎ現在、11代目市川海老蔵が13代目を名乗ることになっています。

ですから、江戸時代から代々続く伝統的な名跡であることは間違いありません。



市川團十郎、格が高いってどういうこと?

市川團十郎の家、屋号を成田屋といいます。

この成田屋の名が最も格が高いと言われています。

江戸時代に歌舞伎が大衆演劇として定着した理由の一つに、

初代の團十郎が荒事という芸風を確立し、江戸歌舞伎を大いに盛り上げたことがあります。

また、お家芸として歌舞伎十八番を作ったり、

明治の近代化のなかでも歌舞伎の伝統を継承させたりと、

代々の市川團十郎が、歌舞伎の歴史の中に数々の功績を残しているのです。

そのため、市川家の独特な慣習もありますので、

そのうち3つを紹介します。

市川團十郎創設の歌舞伎十八番とは?

歌舞伎十八番に対して、4つの謎があるそうです。

①なぜ、七代目団十郎は、家の芸をまとめようとしたのか?

②なぜ、「歌舞伎十八番」と名づけたのか?

③どういう基準で選んだのか?

④なぜ、「勧進帳」だけ新作なのか?

歌舞伎十八番のルーツを辿ると、

七代目団十郎が、当時9歳の息子に、

八代目団十郎を継がせる襲名披露公演に、

見ることができます。

ここから、歌舞伎十八番を制定した理由に

〈團十郎の家の権威の確率〉〈荒事の復権〉

の2点にあると考えられます。

八代目團十郎襲名興行で配った摺物に、

「江戸市川流寿歌舞妓狂言組十八番」と書いたそうです。

寿狂言とは座元だけが使える言葉らしく、

市川家は座元ではなかったものの、

そのくらい権威がある家なのだー、とこの1文字にこめたとみられます。

それに、「歌舞伎十八番の内の〇〇」と演目を紹介したら、

歌舞伎の代表作が家の芸であるー、と天下に知らしめすことにもなると。

加えて、人気狂言の「勧進帳」、

これは初代や二代目が演じてきた芝居ではなく、

七代目団十郎が新しく作り変えたものだそうです。

現在でもおなじみの通り、

能の「安宅」を下敷きの「勧進帳」はこの時に生まれたのです。

当時は、能は武家の芸能であったため、

庶民が観る機会はほとんどなかったとか。

それを歌舞伎化するということは、

七代目團十郎の強い意志による行動だったのだろうといわれています。

勧進帳は、松羽目物と言われ、

能の舞台を模した設えの中演じられます。

その原型を作った七代目団十郎とは

役者だけに留まらない

敏腕プロデューサーだったのだなあと思いました。

*歌舞伎十八番についてこちらに詳しく書いています

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市川團十郎の定紋:三枡の意味とは?

市川家の定紋は「三枡」です。

読み方は、「みます」「さんじょう」のどちらでも良いそうです。

この「三枡」は、どのように作られたのか?

「三枡」のモデル、皆さんはなんだと思いますか?

ちょっとクイズにしてみましょう。

(A) 入れ子の升模様

(B) 稲妻の模様

(C) ラーメンの丼模様

どれが正解かは、

確実には言えないのですが、

どれもそれなりに納得のいく説があるようです。

(A)は、團十郎が枡を見たとか、もらったとかという文章が

残っているようなのですが、

それが歴史上実際に起きたことかがわからないということでした。

(B) と(C) は 共通していて、

この三枡の模様は、稲光を表す文様が元になっているいうことです。

ラーメン丼も同じ意味でもように使われているらしいですよ。

これも、私はどれが答えでも構わないのですが、

稲光のマークと見るとかっこいい気はしますね。

市川團十郎・十一代目團十郎の事件と名前の関係

戦後、海老さまブームを巻き起こしたのが十一代目市川團十郎です。

この方は、名を継ぐことに慎重で、

すぐには首を縦に振らなかったということです。

しかし、十一代目を襲名してから、

奇行や周囲との衝突を度々起こすようになったそうです。

楽屋が気に入らないと楽屋入りをしなかったとか、

公演を欠席するだとか、

俳優協会を脱退するだとか、

役者としての人気は高かったのですが、

その裏で数々の事件があったのだそうです。

その事件についても著者は発端や周囲の人の発言などを調べ、

明らかにしています。

そこから読み取れるのは、

「市川團十郎」という名の大きさです。

確かに、江戸から350年間続く名門の名です。

歌舞伎役者なら、喉から手が出るほど欲しいだろう、

超高級ブランドの名です。

それだけに重い・・・。

楽屋割りや下座表の名前の順序など、

最高位ではないとダメなんだー、

という名に対する恐れにも近い思い込みもあったのではと

推測することもできます。

少年時代は、おじぎの金ちゃんと称されていたほど、

周囲に気を使う少年であったということ。

繊細で生真面目で不器用で、

言葉での説明が苦手で癇癪を起こしていたという

実の姿に、名優の苦労を思います。

襲名してわずか3年で、がんによりお亡くなりになったことからも、

名の大きさに自らを合わそうと必死だったのではと感じます。

それほどに、「團十郎」の名は重いのでしょうね。

*歌舞伎の家の格付けについてはこちらをどうぞ

歌舞伎役者には、名前の他に、屋号という家の呼び名があります。 また、家や役者の名前による格付けがあるらしいのです。 大きな舞台で...



市川團十郎、歴代の團十郎の紹介

ここでは、各代の團十郎について一言紹介をしていきます。

初代市川團十郎:1660年~1704年

荒事の創始者と言われています。13歳の時に顔を赤く塗って演じたことが、荒事特有の隈取りへとつながっていったそうです。

二代目市川團十郎:1688年~1758年

子役時代は親の七光りと言われたそうですが、その後役者としての才能を開花させ、瀬千両役者の名をものにします。二代続いた名優の家ということから、歌舞伎の家制度はここから発祥したという見方があります。

三代目市川團十郎:1721年~1742年

二代目の養子、14歳で団十郎の名を継ぐが、21歳で病死してしまいます。

四代目市川團十郎:1711年~1778年

3歳で初代松本幸四郎の養子となり、24歳で二代目松本幸四郎を襲名します。

二代目団十郎の隠し子では?という噂があったものの、結局は団十郎の婿として四代目を継ぐことになります。

五代目市川團十郎:1741年~

先代達の芸を受け継ぐことに加え、新たな芸をも作り出して行った。当時の江戸っ子の象徴と言われていた。早々に、息子に団十郎の名を譲って引退するものの、息子の死により、孫に六代目を継承させるまで、幸四郎、団十郎、鰕蔵、白猿と名を変え、長く舞台に立つことになる。

六代目市川團十郎:1778年~1799年

13歳で団十郎の名を継ぎ、20歳で座頭まで上り詰めるが、その後早逝します。



七代目市川團十郎:1791年~

五代目の外孫、9歳で団十郎を名乗る。家の芸の他に時代物や世話物など、幅広い役を演じ、人気者になって行く。歌舞伎十八番の「勧進帳」を新たに作り直したそうです。晩年は、天保の改革により、贅沢な暮らしをしたということで江戸を追放となり旅暮らしを余儀なくされたそうです。

八代目市川團十郎:1823年~1854年

9歳で団十郎を襲名。当時の団十郎の名は大きく、15歳の時には座頭を勤めたそうです。美男子でよく通る声をしていたという頃から、女性からの人気が高かったということです。しかし、大阪での芝居初日を前に自死してしまいます。31歳の若さだったそうです。

九代目市川團十郎:1838年~1903年

七代目の五男、明治の「劇聖」と言われています。河原崎の名を継いでいましたが、36歳で九代目を襲名します。新時代に即した歌舞伎を作るべく、様々な演劇改良に尽力しました。1887年の天覧劇で、尾上菊五郎らとともに「勧進帳」「高時」を演じ、歌舞伎の地位を高めることに貢献しました。その後歌舞伎座の座頭にもなるのです。

十代目市川團十郎:1882年~1956年

九代目の娘婿、没後に息子の十一代目が追贈

十一代目市川團十郎:1909年~1965年

相次ぐ戦争の時代、若い頃は大根と言われた九代目海老蔵でした。戦後、徐々に人気を高め、「源氏物語」で海老様ブームを巻き起こします。見た目も口跡もよく、二枚目役も色悪役もこなし、新作にも意欲的に取り組んだ功績が認められ、団十郎襲名へと至っていきます。なかなかに気難しい方でもあったようです。襲名から3年後に惜しまれながらこの世を去ります。

十二代目團十郎:1946年~2013年

十一代目の子でありながらその誕生は公表されていませんでした。7歳で初舞台、19歳の時に父という後ろ盾を失ってしまいます。当時は歌舞伎界が低迷していた頃で、苦労をされたようです。尾上菊之助、尾上辰之助とともに昭和の三之助として名を馳せ、坂東玉三郎とのえび・たまコンビで人気を博し、その地位を高めていった方でもありました。大らかさと存在感は圧倒的で、大スターと言える方でした。

そして、今は十三代目の誕生が待たれます。

次の時代は、十一代目海老蔵の肩にかかっていると思えます。

350年間も名前を続けてきたということの重みとともに、

個々の團十郎さんが個性的な人生を送ったんだなあということがわかりました。

この時代のどこかにタイムスリップして、

歴代の團十郎さんのお芝居を観てみたいと思いました。



市川團十郎に関わる死因や襲名の謎とは

市川團十郎の死因、非業の最期とは?

市川團十郎家には、12人の團十郎さんがいらっしゃいますが、

このうちの半数が非業の死、若くしての死を遂げていると言われています。

まず、初代の團十郎さんですが、なんと舞台の上で共演の役者さんから、

刺殺されてしまったんだそうです。

お亡くなりになったのは44歳というまだまだこれからという時期でした。

荒事を作り、当時はかなり「カブいた」人物だったことがうかがえるので、

なんらかのトラブルを抱えていたのかもしれませんね。

3代目の團十郎さんは、大阪公演で病にかかってしまい、

江戸に戻ってからもそれがうまく治らず2ヶ月後に逝去されたとのことです。

21歳という若さだったそうです。

6代目の團十郎さんも死因は風邪です。

3代目と同じく21歳という若さで急死されたそうです。

今のコロナウイルスも、風邪という人がいますから、

風邪というのは昔からバカにできない病気だったんですね。

私が最もショックを受けたのは8代目の市川團十郎さんです。

この方は、公演先(大阪)で自死をしてしまったそうなのです。

理由はわからないとのこと、

もしかしたら團十郎という名前の重さに潰れちゃったのかなって思いました。

2020年は、多くの有名人が自ら命を絶ったことが話題になりましたね。

あの時の喪失感というか呆然と信じられない心情、

あれを思い出します。

江戸の時代でも、ご贔屓の役者さんの急逝、しかも自死というのは

相当ショッキングな出来事だったのではないかと思います。

時代が近くなってくると、

11代目の團十郎さん、12代目の團十郎さんも病気が原因でしたが、

天命とは言えない年齢で逝去されています。

11代目は襲名後わずか3年半、享年56歳だったということ。

今の海老蔵さんのお父さんである12代目團十郎さんは

2013年に病気でご逝去されました。

9年間という長い期間、白血病と闘いながら舞台に立っておられたんですよね。

実際の死因は肺炎だったということです。

亡くなったのは2月3日でしたが、

その報が流れた4日の2日後6日には、松竹の株が大暴落したということも起きました。

そのくらい、團十郎の名前が歌舞伎を支えていたんだと実感します。



市川團十郎、襲名にまつわる謎とは

市川團十郎襲名というのは、現在の歌舞伎界では一大イベントと先述しました。

2020年に行われるはずだった

市川海老蔵さんと堀越勸玄さんの市川團十郎白猿、市川新之助襲名披露の予算は、

約10億円と言われていました。

実は、それ以前、1985年の、

市川團十郎、市川海老蔵の襲名披露公演には、

約35億円の予算がかかったと言われており、

その規模が莫大であったことがわかります。

この予算、今でも海老蔵さんが借金を返し続けているそうで、

襲名披露が経済的にも大きな行事なのだとわかります。

それ以前の襲名についてもいくつかエピソードがあるので紹介します。

4代目の市川團十郎さんは、幼くして松本幸四郎さんの養子となり、

24歳で松本幸四郎を名乗ります。

しかし、3代目の市川團十郎さんが病で急逝し、

その後継として、この当時の松本幸四郎に

市川の名跡を譲ることとなったのです。

3代目が亡くなってから約10年後に43歳で4代目市川團十郎となります。

一旦、外の家に養子に出て名前まで継いだのに、

また呼び戻されて家の名を継ぐって

今では想像もできませんが、こういうことも起きたんですね。

5代目の市川團十郎さんも波乱に満ちています。

父である4代目が、松本幸四郎から市川團十郎へと名を変えた時に、

3代目松本幸四郎の名を受け継ぎます。

そのまま役者として舞台に立っていたのですが、

父が名前を変えたことにより、5代目市川團十郎を襲名します。

そして江戸歌舞伎の第一人者として人気役者になっていくのですが、

跡取り息子が本妻の子ではなくお妾さんの子であったことから、

一旦外に養子に出し、そこから改めて自分の家に引き取るという

手の込んだことをして、息子さんに6代目市川團十郎を譲ったのです。

ここら辺は私にはあまり理解できないことなのですが、

当時は、外に子供を作ることはよくあったことなんですかね。

だから、歌舞伎役者は遊び人、というイメージも付いて回るのかもしれませんね。

大昔のことなのに。

そうして、6代目に名を譲ってのんびりしていたのに、

この方も病気で急逝してしまったことから、

もう一度舞台に立つんですよ。

その時の名が、市川白猿だったのですね。

そう、海老蔵さんが名乗ろうとしている白猿は、ここにも所縁がありそうです。

そうして、孫に7代目市川團十郎の名を継がせるまでに育て上げたということです。

この5代目、名前も、松本幸四郎、市川團十郎、市川蝦蔵、市川白猿など、

様々な名を名乗りながら、江戸歌舞伎を支えた方なんですね。

市川毛の襲名に関しては、本当に色々とエピソードがあるようで、

歴史を遡っていくと興味深いことがわかります。



市川團十郎、13代目襲名にかかる期待とは?

11代目市川海老蔵さん、襲名は延期になっていますが、

その肩にかかる期待は大きいと言えます。

2021年の東京オリンピック開会式では、

江戸の伝統を表すシンボルとして「暫」のほんの一部(短すぎ!)を披露しました。

その姿に、印象付けられた方も多いと思います。

歌舞伎ファンの中には、團十郎がいない江戸歌舞伎は、

酒のない宴席だという人もいるそうです。

市川家以外でも、当主不在の家はあり、

また空席のままではもったいない名もあります。

その中でも、やはり團十郎という名は格別なのですね。

歴代の團十郎は、改革の人が多かったです。

十二代目も、歌舞伎衰退期にあって、

様々な改良をしながら歌舞伎を盛り立てることに一役買ってきました。

現在の海老蔵さんも、とても先進的な発言が多く、

改革者としての素質も十分に持ち合わせています。

若い頃はひんしゅくを買うことも多く、

危なっかしいお兄ちゃんに見えましたが、

現在は歌舞伎役者として歌舞伎の発信にも力を入れています。

ツイッター、ブログと情報発信もマメで、

そこから歌舞伎へ入ってくるファンも増えています。

現在42歳です。

父が團十郎になった歳が38歳ですから、その歳を超えたことになります。

気力も風格も演技力も備わってきた海老蔵さんです。

今後、ひとまわりもふた回りも大きく、重い名を受け継ぎ、

本人の器も広げていって欲しいと思うところです。

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市川團十郎について家系図や歴代團十郎、格式や様々なエピソードについて書いてきました。

これらのことは、

「団十郎とは何者か 歌舞伎トップブランドのひみつ」by赤坂治績(朝日選書)

も参考に書かせていただきました。

長文となりましたが、

読んでくださりありがとう存じまする。